株式会社開明製作所 代表取締役 梅田八寿子氏

持ち前の明るさと探究心で、パートから社長になった!

「パートから社長になった!」というだけで、その人物像に好奇心が湧く。
横浜市旭区、環状二号線脇にある株式会社開明製作所は、昭和31年創業の精密機器部品超精密切削加工の会社。
その会社でパートから社長になり、従業員20名を率いているのが、社長の梅田八寿子さんである。

将来の夢は発明家になることだった

聖ヤコブ幼稚園時代。明るくお転婆な少女だった。

1962年香川県高松市生まれ。栗林公園は自宅のすぐ裏手という自然豊かなところで育った。
実家は、祖父が創立した生コンの中小企業で、期せずして開明製作所と同年の創業なのだという。両親ともに、祖父の会社で働く同族会社だった。

4人兄弟の長女で、明るく、お転婆な少女だった梅田さんは、しょっちゅうケガが絶えない少女だった。ぶら下がりシーソーが回転してきて額を縫うほどのケガをしたり、木の樽を踏み台代わりに積み上げて鉄棒をし、眉間に大きなたんこぶをつくったり・・・。だが、その一方で、時計やオルガンなど、物を分解するのが好きだったという。さすがにオルガンは両親に止められたと苦笑するが、小中学校時代の夢は、発明家になることだった。

休日は朝から映画館通い

株式会社開明製作所 代表取締役 梅田八寿子氏

高松市立桜町中学校に入学すると、バドミントン部に入部した。県大会に出場するほど夢中になったが、体育の授業中にぎっくり腰になり、腰椎分離症だということがわかる。
その一方で、数学の先生に憧れ、将来は数学の先生になりたいと思うようになっていた。

地元で進学校として知られる私立大手前高松高校に進学しても、迷わずバドミントン部に入部した。
腰の病気が治癒していたわけではないが、動ける間はやりたかった。思い込むと一直線なのである。要領が悪く、きまじめなのだと当人は笑う。
つまずいても、それが解消するまでは次に進めないのだと自己分析した。

が、進学校だったため、部活は1年次のみの活動と決められていた。すると、小学校時代叔母に連れて行ってもらって以来続けていた映画館通いに一層夢中になった。当時、地方の映画の封切りは2本立てだった。一人でほぼ毎週朝一番から映画館通いをしたので、当然映画館の人にも顔を覚えられ、大学時代に映画館の閉館が相次いだ時には、ポスターをたくさん譲ってもらったという。

中でも洋画が好きで、「ベン・ハー」のようなスペクタクルなハリウッド映画が好きだったというが、邦画「キタキツネ物語」に夢中になり、北海道に憧れこともあるそうだ。
キタキツネには寄生中のエキノコックスがいると知り、北海道行きはやめたのだと笑った。

数学教師を目指したが、物理学科に入学

洋画とともに夢中になったのが、洋楽だった。とりわけ、ベイシティローラーズやイーグルス、クイーンが好きで、父と共にベイシティローラーズを脱退したパット・マッグリンのコンサートにも出かけている。

高校受験に合格したら、映画を録画するためにビデオデッキを買ってもらう約束を両親としていたが、受験に失敗してしまい、仕方なく貯めていたお小遣いでビデオデッキを購入したそうだ。イングリッド・バーグマンやオードリー・ヘップバーンの映画を録画して、ビデオテープがすり切れるほど何度も見た。

「高校時代は映画や洋楽に夢中になっていたので、勉強はあまりしていませんでした。だから、大学受験は第一志望の大学には入れませんでした。」

進学したのは、東海大学理学部物理学科だった。リケジョなのである。

「東海大学での第1志望は情報数理学科だったのですが、第2志望の物理学科に入学しました。」
ここで、元夫となる人と出会うことになる。

意に反して10年間の専業主婦生活

株式会社開明製作所 代表取締役 梅田八寿子氏

大学では、福祉のサークル活動「ワークキャンプ」に夢中になった。
毎週日曜日には知的障害者の支援施設を訪問してお手伝いをした。
実は、梅田さんの末の弟は障がいがあるのだという。自身も腰椎分離症をかかえ、障がいが身近なものだったことがきっかけになった。

「自分も何時どうなるかわからないのだから、できるときにやれることをやろう、と思ったのです。」と、梅田さんは語る。
そして、卒業すると四国に帰り、日産ディーゼル東四国販売株式会社に経理担当として入社した。

しかし、ゴールデンウイークに彼氏が実家に遊びに来ると、とんとん拍子に話が進んで、翌年には結婚することに。
平塚に新居を構えた。ここで、またしても就活をしたが、銀行から内定が出たところで妊娠がわかり、就活は白紙に戻ってしまった。

その後、天王町に転居し長女が幼稚園に入園すると、今度は通信教育の添削指導のアルバイトを始めた。
しかし、4年後に長男を、5年後に次女を授かり、義母の方針もあって10年間専業主婦をすることになった。

そして、次女が1歳になった頃、今度は義母には知らせず、配達のアルバイトを始めた。託児所があるのが魅力だった。
しかし、重い保冷箱を担いで階段を上り下りするうちに、数ヶ月すると体を壊してしまった。

「それでも、色々な人が色々な立場で働いているのを知ることができたのは財産になりました。」と、梅田さんは振り返る。どこまでも前向きなのである。

開明製作所との運命的な出会い
そして、社長に直訴した!

株式会社開明製作所 代表取締役 梅田八寿子氏

それでも、働くことを諦めなかった。すると、出向いた職安で開明製作所の求人と出会う。最初は、労働時間帯が合わず諦めかけたが、開明製作所の社長(先代)石館治良氏が、まずは来てみるようにと言ってくれた。

子ども3人を友人に預けて面接に出向くと、その友人の夫が開明製作所の取引先担当者であることがわかり、さらに社長も東海大学出身で、まるで運命であるかのように偶然が重なった。こうして縁が繋がり、パートでの採用が決まったのである。

この頃、開明製作所は星川の線路脇にあった。線路と道路に挟まれた工場は、時折揺れた。だから、小さい物を作るようになったのだという。

梅田さんは、大学受験の際に情報数理学科を目指したほどなので、パソコンが好きだった。
そこで、Macを使い、自分で家計簿ソフトを作っていた。
当時、まだパソコンを使いこなしていなかった開明製作所の仕事は、FAXや郵便で注文が届き、それを紙に手書きするアナログな仕事手法だった。
だから、当然書き間違えもある。部品の受注・発注を管理するシステムを何とか作りたいと考え、まだパートだったにも関わらず、先代社長に仕事の効率化を直訴した。

すると、先代は「じゃあ、やってみる?」と、即答。そこから、梅田さんのデジタル化との格闘が始まった。ソフトの選択、パソコンの選定など、イチから検討していった。
それまではMacを使用していた梅田さんだが、やりたいことはMicrosoftのアクセスを使わないとできないとわかると、自宅のパソコンもWindowsに買い変えた。やりたいことは明確だったので、目標に向かってコツコツと作り上げていく作業が続いた。ボロボロになるまでマニュアルを使い倒し、1996年夏に着手した作業は、1997年2月にはテストランを行うまでになっていた。その頃から、世の中でもホームページや電子商取引(EDI)が普及し始めた。梅田さんは、まさに時代の先取りをしていたのである。

自社システムがついに完成すると、雑誌や日刊工業新聞などの業界紙から取材を受けた。
社長に勧められて、論文も書いて発表した。さらに、検査表をつくるシステムも作った。

すると、メイン取引先が生産計画を知らせてくれるようになる。そこで、本格的に計画生産に踏み切り、予め生産して在庫から出庫するシステムを立ち上げた。在庫補充の生産計画も作ることができるようになったのである。受注生産に比べると、社員の残業も減る。注文に追われることがなくなり、余裕を持って仕事ができるようになった。

また、先代と共に同友会のIT研究会に参加した。
「おかげで、自分のやっていることが工場にとって大事なことだと言うことが再確認できました。」

パートから社長へ
その裏にあった壮絶な人生


1996年、先代社長の石館治良氏と社員旅行先で。

実は、当時先代の石館氏は同友会の代表理事をしていた。
だから、会社に不在のことも多く、お客様からの問い合わせに応えたくて、梅田さんは社長を捕まえては質問攻めをするようになる。
図面の読み方、仕事の内容、機械の取り扱い方など、何でも聞いた。すると、次第にお客様と仕事の話が何でもできるようになっていった。
お客様も梅田さんを頼りにするようになった。部品の加工も部分的にだが、やらせてもらえるようになっていた。
当時、梅田さんはペーパードライバーだったのだが、納品にも出かけるようになり、必要に迫られて車の運転もするようになった。

33才でパート入社した梅田さんは、43才で社員になり、その翌々年には部長へ、その数年後には専務になっていった。
実は、その裏側にも壮絶な人生があったという。

夫が退職して起業した。その翌年に息子が怪我をし、次いで長女が入院した。退院後の長女は、学校になじめなくなる。そこで、PTA活動を始めた。
娘の学校での様子を知り、先生とも接点を持つことで、長女の学校復帰をサポートしたかった。
しかし、忙しさは半端なかった。しかも、上星川にマンションを購入した直後の夫の退職で、ローンの支払いも梅田さん両肩にのしかかってきていた。

やがて、3人の子供を連れて、夫とは離婚した。シングルマザーになり、一家の生計は梅田さんの稼ぎで支えることになる。
そんな中、先代が「借金が一億円を切ったら社長を交代しよう。」と、言い出す。
だが、リーマンショックがあり、その後の東日本大震災で、負債は膨らんでいった。

2015年、先代の病気が発覚する。腎臓がんのステージ4だった。その後、わずか2年で先代は亡くなった。

「もっと色々なことをきちんと話しておくべきだったのですが、亡くなってからの話は縁起が悪くて私にはできませんでした。星川に会社があった頃も、15年前に移転してきてからも、わからないことは何でもトコトン先代に聞いていました。
すると、先代はうれしそうに大概何でも教えてくれました。そうこうするうち次第に、先代の方から聞かれることが増えていき、私は開明製作所のことを自分事として考えるようになっていったのです。」

一方で、先代とのコミュニケーションは密でも、他の従業員とのコミュニケーションはあまり気にしていなかったという。

そして、2017年1月、社長交代し、先代が亡くなった8月に代表に就任した。慌ただしい中、筆頭株主である創業者(先代の父)の妻と先代の妹が励まし、支えてくれた。

一方、いわば急ごしらえとも言える代表就任だったので、当然社内にも軋轢が生まれていた。

毎朝営業会議をしてコミュニケーションを図ろうとするが、数年間にわたり、しこりはくすぶり続けたと言う。新社長の方針に異を唱えた一人の社員が辞職し、それをきっかけにパート社員の八人が退職した。それと共に、問題は解消していったという。

そして、昨年、第2工場の稼働を始めた。ゆくゆくは分社を計画している。また、本社ではアルバイト社員を含め14人を採用した。
現在は、社員一丸となって、梅田さんとともに開明製作所を支えている。

激流を漕ぐような人生を過ごしてきた梅田さんのストレス解消は、映画やオペラ鑑賞、そして、中学時代から習い覚えた石洲流の茶道をたしなむこと。
株式会社ニイガタの渡辺学社長に誘われて、結婚以来25年ほど途絶えていた茶道を再開したのだという。
「今はもう乗っていませんが、先代の生前には、バイクに乗って山を一緒に走っていました。」と、その当時を懐かしむように楽しげに語ってくれた。

株式会社開明製作所
本社:横浜市旭区市沢町575-8
TEL:045-355-3434
https://kaimei.co.jp

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵>