「もう社長ではないから・・・」と尻込みする木村氏に、「ミスター同友会・ミスター経営指針」とも言うべき木村氏の話を是非とも伺いたいとお願いして取材が実現した。
「HistoryはHis Story。その人の歴史背景を知ることが大切」と綴る木村氏が、同友会会員諸氏のために、これまで語ったことがない自分史を静かに語ってくれた。それは、想像を遙かに超えた壮絶なストーリーだった。
1950年、大分県湯布院生まれ。36年に一度、非常に強い運勢を持つと言われる「五黄の寅年」生まれである。これまでは語られてこなかったが、父は文筆家で、母も作家志望だったという。母は父にとって3人目の妻だった。3才違いの弟との二人兄弟だが、奔放な父母の元で育てられることを心配した祖父母の計らいで、3才から中学3年まで、弟と共に別府で神社の神主を営む母方の祖父母の家に預けられて育った。
いじめられ、石を投げられることもあったというが、負けん気が強く、よくケンカをした。その一方で、家計を助けるために、小学校2年生から新聞配達をした。4年生までは、学校が終わった後の夕刊のみ。5年生になってからは、朝夕刊を配り、祖父亡き後の祖母を助けた。成績やスポーツに秀でていないと周囲から認められないと思い、勉学にも励んだ。幸い、新聞配達で鍛えていたため、足も速かった。
中学3年生の時、高校へ行かせてあげると、印刷業を営む本家の大伯父に引き取られた。本当は普通科高校に通いたかったが、伯父の意向もあって、進学したのは熊本工業高校の機械科だった。入学後すぐに自分には向いてないと思ったが、当時は普通科への転科はできず諦めた。
学校へ通う傍ら、伯父の工場を手伝う日々が続いた。当時は活版印刷だったので、文字を拾う文選工の仕事を任され、原稿を見ながら、一時間に3,000文字を拾い文選箱に並べた。その傍ら、進学の費用を貯め続けた。大伯父は千葉大工学部印刷専攻へ通わせたがっていたが、伯父の弟が税理士になっているのを見て、それを目標にした。
工業高校からの大学受験だったので、猛勉強したが1年目は合格が叶わなかった。そこで、アルバイトをしながら浪人し、受験勉強を続けた。当然予備校に行くお金はなかったので、ラジオの大学受験講座を受講し、再受験した。その結果、見事に合格!晴れて都内の大学法学部に入学した。
その頃、東京都内の各大学では学生運動が繰り広げられており、木村氏が入学した大学も例外ではなかった。弁が立つ木村氏は、気がつくと周囲に頼られ、学生運動の中心にいるようになり、デモにも参加していた。
一方で、熊本時代からの友人の知り合いからアプローチされ、交際することになる。当時、看護の学校に通っていた現在の奥様である。学生運動の傍ら、アルバイトをし、登山をし、デートもする、人生で初めて自分のためだけの時間を過ごせる充実した日々・・・。そして、勉強が好きだった木村氏は、大学に残ることにする。教授に目を掛けられ、北欧への留学を勧められたが、寒いのは嫌だから断ったというから驚く。
「今だったら、行ったのにね~。」と笑う。
その頃、弟が発病する。CTスキャンがまだ貴重だったころで、原因がなかなかわからず、日大板橋病院でCTスキャンを撮り、漸く脳腫瘍だとわかった。しかし、緊急手術をしたが、腫瘍は半分しか摘出できなかった。そのため、10年後に再発し、再度手術をすることに。その結果、後遺症で左半身麻痺となってしまう。さらに、その後も病状は悪化し続け、ついに植物人間になってしまったのだ。そこで、5年前に亡くなるまで木村氏がずっと面倒をみ続けてきた。こんなにも弟を物心両面で支えてきたにも関わらず、「自分だけが幸せになって、弟に申し訳ない。」と、木村氏は今も弟を思いやり、悔やむ。
弟の発病もあって、勉学を諦め、日本橋の法律事務所に就職することにした。大学の先輩が活躍する合同事務所だった。司法試験受験を見据えてのことだったが、その後、縁あって川崎の事務所へ転職することになる。
時は、バブル経済期。1990年に志を持つ仲間7人でお金を出し合って会社を設立した。それが、「株式会社川崎中央プランナー」である。不動産の資格(宅地建物取引主任者)を持っているのは木村氏だけだったため、木村氏が社長になったが、7人の思いは様々だった。そこで、起業後3年目には事業が軌道に乗り始めたにも関わらず、会社内部で問題が起こり、それは裁判にまで発展し、解決するまでに5年を要した。助けてくれたのは、高校時代の同級生だった弁護士であった。
そして、木村氏は奥様に助力を頼み、会社の株を全て買い取り、1996年、川崎東田商店街に事務所を移転して新生「株式会社川崎中央プランナー」を再出発させたのである。
その当時、母とは東京に出てきたときに連絡を取っていたが、父とは疎遠になっていた。母は実業家と再婚していたが、父の居所は不明だった。そこで、会社設立時に戸籍を取り寄せた。しかし、戸籍が届かない。役所に問い合わせると、申請した前日に亡くなっていた。役所に尋ねて、その頃父と暮らしていた女性に連絡を取ると、父の戒名を教えくれた。偶然だが、木村氏の名前である「教義」の二文字が父の戒名に入っていて驚いた。「父が見守ってくれている」と感じたという。
現在、「株式会社川崎中央プランナー」の業務は、不動産の売買仲介、不動産の手続き・相談、賃貸用不動産の管理のほか、シェアハウスの運営や建設コンサルティング業務も行っている。地域にじっくりと根を下ろし、地域の課題解決などにも貢献している。
もちろん、経営していく中には、リーマンショックや東日本大震災などの経営危機もあったが、管理物件を少しずつ増やし、他社にはないコンサルティング業務を加え、乗り切ってきた。
さらに、同友会で得た学びや仲間が大きな支えになっていたことは言うまでもない。
1995年に他の異業種交流会で知り合った方から神奈川県中小企業家同友会を紹介してもらった。当時、経営方針はあったが経営理念はなかったので、経営指針作成部会があると聞き、興味を抱いた。2年間熟慮を重ね、1997年に同友会に入会し、1999年に経営指針作成部会第13部会を受講して、経営指針を作成した。2002年から2年間川崎支部長を務め、2007年には副代表理事も務めている。
そして、事業は失敗と成功を繰り返し、少しずつ売上を伸ばしていった。建売事業に参入した時には一時的に売上がのびたものの、債務が残ったという。2004年、同友会の仲間と共に介護福祉事業「ジャパウイン」の立ち上げに参加した時には、監査役に付いた。2015年、ジャパウインより三浦市の介護事業「こもれび」を引き継ぎ、昨年他社に譲渡している。
会社が危機に陥る毎に奥様や同友会の仲間に助けられてきたと振り返る。1976年に26才で結婚した奥様は、看護師でありながら保健師を目指した勉強家だ。社会人入学10倍の狭き門を、木村氏の小論文特訓を経て見事合格している。どこか似たもの夫婦なのである。そんな夫婦の間には、男の子が2人。長男は、大手不動産会社を経て、2年前に事業承継した。ミュージシャンだった次男と妻の甥は長男より先に入社し、次男は経営指針作成部会54部会を受講している。
実は、事業承継の際には、長男、次男、甥っ子の三者で話し合って決めてもらったという。しかし、「経営者のDNAは元々備わっているわけではなく、自分で作るものだと思っています。長男は、私が作ったDNAを引き継いでいます。」と、全幅の信頼を寄せている。
木村氏は71才。事業承継にはまだ早い気もするが、「元気なうちに承継して、私を利用してほしい。そうすればスムーズに承継できると考えました。」これは、3代あとまで面倒を見続けた徳川家康に倣ったものだという。現在、長男が大手不動産会社で習得した手法も取り入れ、コロナ禍にも関わらず3期連続の高収益を叩きだしている。
そんな木村氏が一番大切にしているのは、家族の幸せと社員の幸せである。家庭に恵まれない子ども時代を過ごしてきたからこそ、家族の幸せに心を砕く。忙しい合間を縫って、長男が小学生から始めたサッカーのコーチも11年間務め、審判の資格も取得した。新婚旅行も北アルプスの槍ヶ岳・穂高岳だったという登山好きの木村氏は、もちろん息子達とも北アルプスなどへの登山を楽しむ。奥様からの結婚前のプレゼントは、なんとニッケル製の高価なピッケルだったそうだ。
「最近は、ハイキング程度になりましたが、毎週夫婦で歩いています。3人の孫達とも登山を楽しみたいので、小学校1年生の孫の体力を確かめようと考え、昨年鷹取山に一緒に登ってみたら、私の方がきつかった!(笑)」
今年は念願の孫との登山も実現しそうだ。今後は徐々に役職からは退きたいと語るが、現在、沖縄県人会やNPO法人などの顧問を務めるほか、東田商店街の副理事長や川崎広域商店街連合会の理事も兼務している。「事業の収益は、社会貢献を盛り込んだ利益であるべきです。利益が目的ではいけません。」と語る木村氏は、とにかく人が好き。だから、相談され、頼られるとじっとしていられない。まだまだ周囲から活躍が嘱望されて止まない人なのである。
株式会社川崎中央プランナー
本社所在地:川崎市川崎区東田町5番地5
TEL:044-246-5831
URL:https://www.kcp.gr.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>