この人が加わると、明るい人柄でその場が一気に明るくなる。
それもそのはず、社員の約7割が外国人という会社を率いて、社員の多くから家族のように慕われていると聞く。
それが、「株式会社赤原製作所」代表取締役 赤原宗一郎氏である。
しかし、その人生はいつも順風満帆だったわけではない。
板金加工業である「赤原製作所」は、昭和35年、東京都品川区で赤原氏の祖父により創業され、昭和40年に現在の座間市に移転している。
昭和45年(1970年)夏に赤原氏が誕生した頃には、すでに父が後を継いでいた。
4人兄弟の長男だった父は、僅か24才で社長に就任し、兄弟と共に会社を支えてきた。
「いわゆる町工場ですから、貧乏でしたよ。工場とは離れた町田の借家に住んでいて、7才上と2才上の2人の姉がいる末っ子の長男でしたから、泣き虫で、姉とおままごとをするおとなしい子どもでした。」
しかし、小学校に入ると、2年生の時に友達に誘われ、地元のチームで野球を始めた。
忙しい父が、時々キャッチボールをしてくれたのがうれしかった。そして、6年生のときには最高殊勲選手に選ばれるほど、野球に夢中になった。市大会で準優勝したこともある。
その上、生徒会長に選出されたというから、人気も人望もあったのだろう。
「だけどね、泳げなかったんです。クロールで25メートル泳ぐのがやっとでした。平泳ぎなんて、できませんでした。」と、笑う。
そして、中学生になっても校内の部活動には入らず、地元チームで野球を続けた。それは、中学2年生で大和市に引っ越した後も、続けられた。
なんと、監督やコーチが送迎してくれたのだというから、チームからの期待度の高さも想像に難くない。
学校の成績も良かったが、東京都町田市から神奈川県大和市への引っ越しで、神奈川県方式と呼ばれ、受験の選抜資料とされた「アチーブメントテスト(通称アテスト)」の壁が立ちはだかったと笑う。
「アテストは9教科。私は、美術と音楽が苦手だったから・・・。」
そして、本人としては多少不服だったようだが、それでも進学校として知られる県立海老名高校に進学した。
高校時代はいわゆる帰宅部で、アルバイトに明け暮れた。
実は、高校1年生の夏休みに赤原製作所でアルバイトをしたのだが、「時給500円だったのです。こんな会社やっていられるか!」となり、それまで曖昧だった会社を継ぐという気持ちが一気に萎えていったと語る。
その後は、アイスクリームの工場でピッキング作業をしたりと、様々なアルバイトを経験している。
しかし、現役での大学受験は全滅だった。
「中央大学商学部には手応えがあったのですが、ダメでした。この時、一年浪人させて欲しいと、初めて親父に頭を下げました。すると、親父が『大学に行って、一生つきあえる友人を見つけてこい!』と、言ってくれました。」
そして、予備校の早慶上智コースに入った。当時、ABCの三クラスある中のBクラスだったのだが、夏休み前のクラス分けで、友人は皆Aクラスになったのに、赤原氏はBクラスのままだった。そこで、スイッチが入った。
目指したのは、合格し損なった中央大学で最難関の法学部と早稲田大学の政治経済学部。
赤原氏の妄想では、現役の時に入学し損なった中央大学最難関の法学部を蹴って、早稲田大学の政治経済学部に入学するという計画だったのだとか・・・。飄々とした人柄だが、意外と負けず嫌いなのである。
入試科目の英語・国語は得意だった。社会の選択は、地理。それも得意科目だったはずなのだが、早稲田大学でその年に出題されたのは、ベルギーの自治問題だったという。
そのスポット的な問題をクリアできずに撃沈。入学したのは、中央大学法学部法律学科だった。どうやら中央大学に縁が深かったようである。
名門の誉れ高い中央大学法学部とあって、同級生は司法試験を目指す人が多かった中、「元々、法学部を目指したわけではないのです。」と、赤原氏。入学後は、ゴルフサークルに入って青春を謳歌することになる。
ゴルフは、中学生の頃から父の手ほどきを受けていた。息子がゴルフサークルに入ったことがうれしかったのか、父が10万円もするアイアンセットを買ってくれた。「実は、買ってくれたわけではありませんでした。毎月1万円ずつ返すように言われましたから。」
サークル活動の傍ら、またもアルバイトに精を出すことになる。居酒屋の調理場だった。
「だから、今でもキャベツの千切りはうまいですよ。ハマチをおろすこともできます。」 夏・冬休みには、長野県小海町のゴルフ場でキャディのアルバイトもした。その甲斐あって、大学3年生の時には中古だが車も買った。
やがて、卒業が近づくと、メーカーへの就職を志した。
「しかも、B to Bの仕事をしたいと考えていました。」
1994年、化学品メーカーである関東電化工業株式会社に入社した。そこで、営業部で7年間、経営企画部で4年間仕事をした。関係会社から上がってくるPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)を取り扱うことにより、PLやBSの読み方など、経営の基礎を学べたことは、今も役に立っていると振り返る。
そんな赤原氏が会社を継ぐ決心をしたのは、初島に家族旅行に出かけたときのことだった。義兄二人に囲まれて、「おまえしかいないのだから、会社に戻れ。」と迫られ、背中を押されるように、会社を継ぐ決心をしたと言う。一見、他力本願にも見えるが、心の奥底に、長男だからいつか会社を継ぐことになるという想いはいつも持っていたと赤原氏は語る。
しかし、父は一度も会社を継げと言ったことは無かったという。
「法律は最低限のもの。人として、もっと大事なものがある。」と、父は息子に語りかけた。24才で祖父の後を継ぎ、78才まで54年間社長を務めた父の言葉は、今も赤原氏の心の中に響き渡る。
「赤原製作所」は、大型板金加工を得意とし、多くの製作所で加工可能な長さの2倍である6メートルもの鉄板を切ったり曲げたりする加工を行うことができる稀有な会社として知られる。
2005年、赤原氏が赤原製作所に入社して初めて携わった仕事は、CAD(コンピューターによる設計)や溶接現場、そして営業だった。当時は、現在の売上の約半分ほど、従業員は約40人だった。
2008年9月、リーマンショックが起きる。当時は、父が購入した土地や設備により借金が増えていた時期でもあり、また、メインで取引をしていた会社が自己破産し、2年間で1億円以上の赤字になってしまった。やむを得ず社員を数名リストラして、乗り切った。しかし、リストラしたある社員から不当解雇と訴えられ、裁判になってしまう。
それらの難局をようやく乗り越えたと思われたとき、今度は2011年に東日本大震災が起きる。
すると、津波の瓦礫処理や土地の盛り土のために、ダンプカーの量産が必要になった。
この時、父が大きな借金をしてまで導入していた大型の設備が活躍した。
気付けば、赤原製作所は大きな危機を脱していたのである。
2014年、社長に就任した赤原氏が大切にしているのは、「企業は人なり」ということである。
働きやすい環境を作り、働く人が成長をしていかなければ、良い会社は作れないとの信念を持つ。
そのためには、「優秀な人財に国籍は関係ない」と、断言する。だからこそ、父の代の1990年から続く外国人雇用を今も大切に継続している。
そこには、「外国人」という概念さえ、もはや無いようだ。外国人社員にも日本人社員と同じ給料を支払い、同じ待遇で雇用する。だから、親族を誘い、入社させる外国人社員もいると語る。
「三K(汚い、きつい、危険)の職場ですから、日本人には人気がないということもありますが、仕事に対する誠実さでは、外国人社員も日本人に劣らないと思っています。」
日本で家を購入する外国人社員も増えている。
それは、見方を変えれば、赤原製作所が銀行に信頼されていることでもあるのだと、赤原氏は胸を張る。現在、60人ほどいる社員のうち、約7割が外国人社員である。
今はコロナ禍で行っていないが、花見、夏季暑気払い、忘年会など、毎年3回、社員の家族も呼んで工場で懇親会を開催している。
「社員が料理を持ち寄るので、国際色豊かな料理が並びます。とても旨いし、楽しいですよ。これらは、会社の雰囲気を社員の家族に知ってもらう機会であるだけでなく、社員同士の連帯感をつくる大切なイベントになっています。会社でビンゴゲームの景品を用意して、社員の家族にも楽しんでもらっています。」
会社の利益を社員に還元するべく、ダイソンの掃除機なども当たる豪華な景品を会社が用意するというから驚く。
社内では、基本的に公用語を日本語にしているが、ベトナム、ブラジル、パラグアイ、ペルー、バングラデシュ、タンザニア、マリ、セネガルと、社員の国籍は多彩。グローバルな職場になっている。
赤原氏は、「先代も言っていますが、運が99%の会社です」と謙遜するが、赤原氏の代になってからは、色々な企業との取引をもっと増やしたいと、展示会や銀行主催の商談会などにも積極的に参加している。その結果、水道管や足場のメーカーとの商談もまとまり、事業の幅が広がってきた。数年前には、新工場予定地として近隣の土地も購入し、今後の事業の発展が楽しみな会社になっている。
同友会には、2012年に入会し、経営指針作成部会第四七部会を受講し、現在、同友会・県央支部の支部長を務めている。多忙な日々を過ごすが、ゴルフに出かけるのは欠かさない。
その上、コロナ禍に始めた趣味が、「あかさんぽ」と呼ばれている「散歩」である。平日でも1万歩、休日にはなんと4万歩も歩くというのだから驚く。
しかも、Facebookには、散歩での道中の写真がアップされているが、なぜかいつも同じ場所の写真なのがフォロワーの間で謎を呼ぶ。
一方、お酒を飲んで皆でワイワイやるのが好きと語る酒豪でもあるが、この10年ほど夏休みには必ず通っている大好きな場所があるという。奥飛騨の小さな温泉旅館である。家族と過ごす大切な時間でもあるようだ。サラリーマン時代に同期だった妻と3人の娘を誘ってでかける。娘の話しになると目を細める、家族思いのパパでもある。
株式会社赤原製作所
本社所在地:座間市小松原1-44-9
TEL:046-259-1355
URL:http://akahara.co.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>