神奈川同友会会員なら知らぬ人はいない、代表理事を務める株式会社HSA 代表取締役社長の田中勉氏。
「社会的企業」を企業理念に掲げ、「会社は『人間力』を学ぶ『社会学校』である」と明言する。そのような理念の元に「選択制民主主義」を唱え、総合福祉事業として地域ナンバーワン企業になると共に、2018年には「第6回日本で一番大切にしたい会社」大賞の厚生労働大臣賞を受賞している。
ちょっと変わった企業形態が注目を集めるが、その思想をはぐくんだ背景はどのようなものだったのだろうか。今回は、田中氏の個人史を伺ってきた。
「今日は個人的なお話を伺いたいのです.」というと、田中氏は家系図を出してきた。
「うちの先祖は田中姓ではないんだよね。曾祖父が改姓して田中になったのです。曾祖父の両親の姓は『福代』と『曽根』でした。」
田中氏の曾祖父は、お茶や海産物の卸問屋を経営していた。当時は今より改姓がたやすくできたのか、屋号に由来して「田中」に改姓したのだという。
祖母・とくは養女で、実家は地元では名の知れた「川崎ホテル」の四女だった。祖父・恵一は、静岡鉄道創業者の一人で、田中家に婿養子に迎えられたが、50才の若さで急逝している。そのため、名家育ちの祖母は商売を人手に渡すことになり、田中家は一気に貧しい暮らしを余儀なくされることになった。
五人兄弟の末っ子だった父・昭三は、中学卒業と同時に焼津のかまぼこ屋さんに丁稚奉公に出された。懸命に仕事に励んだ父は、やがて頭角を現し、小田原のかまぼこ屋に引き抜かれて技術職のトップに上り詰める。
一方で、知り合いのそば屋も手伝っていた。長身でイケメンだった父は、そこで知人に誘われ大映で俳優も始めたが、わずか数年であっさり俳優をやめて独立し、母と共に「昇栄食堂」という食堂を始めた。富士フィルムとユアサバッテリーの工場に挟まれた地の利に恵まれ、食堂は瞬く間に繁盛した。
そのため、田中氏は1965年に生まれるとすぐ、3才までの間は静岡の本家に預けられて育った。だが、親戚中で一番年少だった田中氏は、皆に可愛がられて育ったという。そこで、本家の伯母を母親だと思って育ったと笑う。
そして、3才になると両親の元に戻り、保育園に通うようになる。しかし、両親は食堂の仕事が忙しく、お迎えはいつも最後だった。「だから、年長になると自分で歩いて帰っていました。」
地元の足柄小学校に入学すると、今度は両親の仕事が終わる夜遅くまで外で遊んでいた。だから、ご近所からは「昇栄食堂の子とは遊んじゃいけないよ。」と言われていたと笑う。
2才年上の兄と共に、山の中に基地を作ったり、川遊びをしたりして遊んだ。そして、夏休みや冬休みなどの長期休みになると、静岡の本家に預けられた。田中少年にとって、それがすごく楽しみで待ち遠しかったという。
「特に、静岡のお祭りは、小田原とは比べものにならないぐらい盛大で、楽しみでした。」
一方、家庭の事情で中学卒業と同時に働かざるを得なかった父の方針で、習字、ピアノを習い、科目毎に専属の家庭教師が付けられていた。
「じっとしているのが苦手なので、どれも、イヤでした。中でも、ピアノはすぐにやめさせてもらいました。」
その傍ら、旅行好きな両親や親族と共に、車で旅行によく出かけた。だから、自分の家は金持ちなのだと信じていたが、実は全く蓄えがなかったと後で知ることになる。両親は稼ぎの全てを子供達の教育費に当てていたのである。
小田原市立白山中学校に進学しても、部活動などはせず、家の手伝いをした。勉強好きな兄に代わり、自分が家を継ぐものだと思っていた。だから、朝は父について市場に行ったりもした。「親父は、透明なビニール袋にお金を入れたものを握りしめて市場に行くんです。その訳を尋ねると、小銭まで一目で見えて都合がいいんだ、と教えてくれました。」と、田中氏。その間も、国語、数学、英語と、科目毎に家庭教師が付けられていた。「勉強して、手に職を付けて、大きな会社に入れというのが親父の望みでした。」
そこで、小田原城北工業高等学校建設科に進学した。当時、建設科は神奈川県内に2校しかなかったという。
高校では、ラグビー部に入部した。ポジションはウイングだった。実は、田中家はみんな長身で180cmほどあったが、田中氏だけが170cm弱と小柄なのだという。「ラグビーで背が伸びなくなった。」と、言われていると苦笑いした。
在学中は、父のすすめで国家資格を次々に取得した。電気工事士、ボイラー技士、危険物取扱者・・・。
そして、卒業後は、父の願い通り、上場企業である大手自動車メーカーに就職した。家計の都合で兄が進学しなかったので、大学に進学することは考えなかった。同時に、工場の独身寮に入り、社会人ラグビーも始めた。
入社直後は、半年間自動車製造に関する学校に通わされた。だが、この頃には、高卒は係長止まりであることがわかる。どうしたら、もっと出世できるのか?先輩から、労働組合に入ることを勧められた。大島を貸し切りで工場の運動会を開催する準備をしたりと、工場での仕事の他にも組合の仕事にいそしむ日々が続いた。しかし、そんな生活が三年間続いた頃、疑問を感じるようになる。このままでは、自分がだめになる。手に職を付けたはずが、何も生かされていない。「30代、40代の先輩たちが輝いて見えませんでした。一人の人間として、人間性がなくなると思ったのです。」
せっかく入社することが出来た上場企業である。父は反対したが、転職をすることにした。取得していた国家資格を生かせる仕事を探した。
たどり着いたのは、上場企業である設備管理会社だった。入社してからわかったのだが、電通の100%子会社だった。博覧会やイベントの設備管理・設計が仕事だった。横浜博も担当した。
「当時は、便利屋勉(べん)ちゃんと呼ばれていました。何でもやってくれるという意味です。業績の良くない営業所を建て直す仕事もしていました。だめな方が楽に業績を伸ばすことが出来る。しかも、目立ちますから。」
寝る間も惜しむほど、全国を飛び回って仕事をした。当時は高度成長期で、経費も使い放題だったという。まさに、仕事を謳歌していた。しかし、ある日後輩がつぶやいた「これって、いつまで続くんですか?」という言葉に胸をつかれる。「言われたときには、『これが仕事だよ。ずーっとだよ。』と説教したのですが・・・。先が見えない、頑張った先がどうなるのか、人生をどういう目標を立てて生きているのか。社会について何も勉強していないことに気付いたのです。」
そこから、自己啓発のセミナーに通い始めた。涙を流すほど感動する話もあったが、自分が何をしたらいいのかわからなかった。そんなときに、社会学の本に出会う。「求めているのは、これだ!」と、思った。社会学の本をむさぼり読んで、勉強を始めた。
「社会学を学び始めてから、生まれて初めて勉強が楽しいと感じました。」
一方で、仕事をしながら起業の準備を始めた。25才の時に中学の同級生と結婚し、すでに子どもも二人いたので、生活を保持する資金と、起業資金として資本金1,000万円を目標にして、20代で不動産投資も始めた。
起業したときには、すでにアパートを10棟所有していた。だから、独立後三年間無給だったが、やろうと思っている会社を継続することができたと語る。
1999年(平成11年)に起業して始めたのは、医療保険を使ったマッサージだった。社会学を勉強していくうちに、仕事の原点は誰かの役に立つことだと考えたからだった。
きっかけは、医療保険を使ったマッサージをしているNPO法人で、右半身不随の方が、西洋医学では治療できない右半身に東洋医学のマッサージをすることにより、少しではあるが機能を回復し、とても喜ぶ姿を見たからだった。こんなに人に喜んでもらえる仕事は、他にはないと思った。
しかし、医療保険を使ったマッサージはあまり一般的ではなく、小田原市では前例がなかったため、許可がなかなか出なかった。すでにスタッフも集め、患者も付いていたので、見切り発車をした。
レセプトを拒否する法律がなかったからである。だが、入金するのは半年後。理念に賛同して集まってくれたスタッフも、不安になって一人、また一人とやめていった。
翌年、介護保険が始まった。すると、訪問介護事業に着手した。その翌年には、居宅介護支援事業や福祉用具貸与事業も開始した。さらにその翌年には、福祉タクシー事業、次いで、身体障害者・知的障害者・児童居宅介護事業と、次々に毎年事業を拡大していき、2004年(平成16年)には有限会社から株式会社へと組織変更するまでになった。
ずっと右肩上がりで成長してきた株式会社HSAだが、一昨年からのコロナ禍で今後の見通しが立たず、初めて売上が下がったという。毎年社員が提案し、進めてきていた中期計画は頓挫した。
そこで、田中氏が提案したのが、総合福祉事業から総合生活支援事業への転換である。コロナ禍で介護施設への一般人の入所が制限された中、すでに近隣の土地に研修施設を建設し、そこでリフォーム事業を立ち上げている。
「昨今、問題視されている親ガチャ問題は、小田原市でも深刻で、親の介護のために不登校になっている子供達がいます。その子達は、中学は卒業できても、ろくに登校できていないので、漢字が書けず、計算もできないから、就職もできない。そんな子どもに従事してもらい、勉強を教えながら仕事も覚えてもらうということを始めました。」
また、社会の役に立つ事業を新たに立ち上げたようだ。今後は、食事の宅配も考えていると語る。「我々は次世代に何を残せるのか」と、常に自身に問いかける。
だから、仕事が趣味なのではないかと思えるが、趣味は読書だという。社会学の本はもちろん、一番好きなのは哲学書だと聞くと、ちょっと近寄りがたさを感じるが、マンガも愛読すると言うのでホッとした。「ワンピース」や「キングダム」が愛読書。読書の守備範囲が何とも幅広い。
同友会には2009年に入会した。社会学を独学で学び組織作りをしてきたが、「人間尊重経営」を掲げ、11年間中同協幹事長を務めて同友会理念を広めてきた東亜通信工業株式会社 故・赤石義博社長の本を読み、自分の方向性は間違っていなかったと確信するきっかけになったという。「尊敬する二宮金次郎さんも、思えば独学の人でした。」同友会理念に自身の理念との同一性を見いだし、西湘支部長、政策委員、副代表理事を経て、代表理事になり2年目を迎える。
地域で安定した企業として、すでに地盤を固めているが、コロナ禍の2020年4月、長男に子どもが生まれ、孫ができた。「かわいくて、可愛くて、一緒に寝たいのだけど、断られる.」と、相好を崩した。
「長男が、尊敬する人は父親だと言ってくれるんです、恥ずかしいけれど、うれしいですね。実は、僕も尊敬する人は父親なんです。」
近い将来、今は亡き父が営んでいた昇栄食堂を再建したいと語ってくれた。父のレシピのラーメンを自ら振る舞い、皆さんに食べて頂きたいのだと目を輝かせた。
株式会社HSA
本社所在地:小田原市扇町5-11-21
TEL:0465-32-2532
URL:https://www.hsa-w.co.jp
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>