取材で通された応接用テーブルの上には、易学で使われる筮竹(長い竹串)が白い陶器のコップに立てられていた。後ろの本棚には、経営や労務・人事・社会保険に関わる本がずらりと並ぶ。
そして、神棚の上の天井には、「雲」と書かれた紙が一枚貼られている。事前に予備知識がなければ、一体ここは何をするところなのだろうと思うような不思議な空間である。クライアントとの電話が終わり、「お待たせしました」と爽やかな笑顔で現れたのは、社会保険労務士の中筋悠貴(ひさたか)氏。
東戸塚で、労働社会保険関係の書類の作成、提出代行や相談・助言業務を行う「横浜労務総合オフィス」と人事労務コンサルティングの「株式会社 天・地・人」を経営している。
中筋氏は、1972年8月、研究職のサラリーマンだった父と専業主婦の母のもとに長男として生まれた。3歳下の妹がいる。生まれた時には横浜市金沢区に住んでいたが、物心つく前に港南区に転居している。
幼少時代のことを尋ねると、中筋氏は「おとなしい子どもだったと思います。」と語るが、空き地で缶蹴りをしたり裏山を探検して遊んだりすることが多かったと語るから、外遊びが好きな活発なお子さんだったことが窺える。
地元の小学校に入学すると、水泳や書道を習い始めた。「だから、今も字がきれいで、それは両親に感謝しています。」と、顔をほころばせた。続けて、「よく風邪を引く、体の弱い子だったんですよね。」と言うが、缶蹴りや「泥巡(別名「泥警」)」、「ろくむし」、「はさみっこ」などの遊びに興じていたというから、それほど病弱だった訳でもないようだ。記憶というのは案外あてにならない。
ここまでお話を伺って、「覚えていないんですよね。」と言うことが多いことに気がついた。
ところで、小学生時代に両親に連れられて、ハイキングを始めている。湯河原、三浦半島、鎌倉天園コースなどに出かけた。かなり本格的なハイキングである。天園ハイキングに出かけたときには、道に迷って危うく遭難しかけたと笑う。中学校に上がると、友人と共に、丹沢にも出かけるようになった。
しかし、県立高校に進学すると、ビリヤードに夢中になった。
「駅の近くにビリヤード場があり、同級生がそこでアルバイトをしていたので、みんなで入り浸っていました。かなり入れ込んでいて、本気勝負で負けたらジュークボックスで一曲というのが定番でした。」
当然ながらお小遣いだけでは足りず、伊勢佐木町の松坂屋内の八百屋でアルバイトをした。そして、時折だが丹沢にも山登りに行ったという。
そんな中筋氏が大学で登山をやりたいと思うようになったのは、ごく自然な流れだったようだ。大学はワンダーフォーゲル部がある大学を選んで、進学した。拓殖大学政治経済学部経済学科だった。
大学に入ると、とにかく山に夢中になった。登山合宿に行く資金がないと先輩にいうと、勝手に山崎製パンの夜間アルバイトに送り込まれる。「資金が足りないときは『山パン』でアルバイト」というのが、ワンダーフォーゲル部の伝統?だったという。この他にも、東京ドームでアルバイトをし、お金が貯まると山に出かけた。
それにもかかわらず、九州最高峰である標高1,936メートルの宮之浦岳に山頂アタックをし、山の反対側から下って小屋に泊まると、翌朝、雪で道がわからないことに気がついた。
「山頂アタックした人がほとんどいなかったからです。とりあえず、ここが道だろうと予想して進んでみましたが、2時間後には元の場所に・・・。リングワンダリングでした。」
それでも、食料の残りは引き返すには十分ではなかったので、来た道を戻ることもできなかった。そこで、周囲を探したところ、鳥獣保護区の看板の上部が少しだけ見えているところがあり、『ここが道だ!』と。その後、赤いテープも何カ所か見つかり、何とか下山できた。
「何度かある『あわや遭難!』という体験のうち最大のピンチでしたが、脱出した瞬間の『助かった』という安堵感は一瞬で、『冒険が終わってしまった』という喪失感が強かったです。
下山後、島内で遊んでいた時に、ラジオから地下鉄サリン事件発生のニュースが流れてきて、ひどく驚いたのを覚えています。」
大学でのゼミは、ワンダーフォーゲル部の部長教授が開催する「小気候調査法」を選んだ。政治経済学部なのに、気象調査?と思ったら、一般教養のゼミなのだそう。ここでも、気象観測のために北八ヶ岳や志賀高原で合宿をしたというから、大学時代は山ばかり行っていたということになる。それでも、留年することはなった。「就活は普通にしました。」と、中筋氏。1997年(平成9年)、中堅建材メーカーに就職した。人と人との関係が密になれるBtoBの営業を希望した。
しかし、研修を終えて配属されたのは、同期入社の中ではただ1人、希望に反して総務部だった。この事が中筋氏の将来を決定づけることになろうとは、この時には夢にも思っていなかった。
業務内容は広く、人事管理、給料計算も含む経理、法人登記などを幅広く担当した。簿記の知識さえなかった中筋氏は、高卒の年下の先輩に帳簿を見せられ、「1ヶ月前の帳簿を見ながらとりあえずやってみたら?」と言われ、初めて帳簿をつけたという。
しかし、順調に業務内容を覚えていくと、少しずつ面白くなっていった。そこで、将来を考えて、社会保険労務士の資格取得を目指し、見事2回目で合格を果たしている。次第に営業部の人たちとも仲良くなっていった。
そんなある日、ある行政書士から建設許可申請を請け負いたいと営業をかけられる。その時、上司が言い放った言葉に衝撃を受けた。
「おまえがやればタダだろう?」
この時、中筋氏は30歳になろうとしていた。「今、辞めなかったら、一生会社員だよな。」 思い切って、退社を決めた。
退社後は、まずインターネットで社会保険労務士事務所の求人情報を探した。すると、ホームページ上では「ただ今求人はしておりません。」となっているのに、問い合わせフォームが出てくる事務所があった。試しに問い合わせてみると、会ってくれた。それが「オフィススギモト」である。ここで、中筋氏は1年間社会保険労務士としての営業の仕方を学んだ。なんとか4件の契約にこぎ着けることができた。
すると、「半分持って独立していいよ。」と、杉本氏。2006年(平成18年)、「横浜労務総合オフィス」を開業した。ただし、月収5万円しか稼げていなかったため、顧客を増やしていく間の3年間は、オフィススギモトに間借りして営業することになった。
事務所が軌道に乗ってくると、2011年(平成23年)6月、人事制度の構築や社員教育を業務とする「株式会社天地人」を設立した(後に「株式会社天・地・人」に改名)。当時は、社会保険労務士は1人では法人化できなかった。しかし、法人の方が信用を得ることができるし、何より社会保険に入りたかったからである。
一方、2007年(平成19年)、経営者が集う横須賀市倫理法人会に入会し、逗子葉山倫理法人会の設立にかかわって転籍した。そこで、藤沢から参加していた会員から紹介された「九星気学」杜出会うことになる。
「『これ、いいですよ。』と言われると、何でもやってみたくなるのです。」と、中筋氏。引っ越しをすると良いと言われ、これまでに4回引っ越した。すると、営業力をはじめとする運気がそのたびにアップしていった。そこで、本格的に九星気学を学び始めた。
「最近は易学も学んでいます。」と、テーブルの脇にあった筮竹(長い竹串)を操り、本を出して解説してくれた。九星気学は、五五二年に古代中国から伝わる占術で、宇宙の気(エネルギー)を九つに分類したものと、さらに「木」「火」「土」「金」「水」の五行の相性を組合わせた占術なのだそう。
すでに五年間九星気学の勉強を重ね、友人・知人の相談にものれるようになってきたと語る。最近は、同友会会員の求人や移転などの相談にも乗っているそうだ。
同友会に入会したのは、2009年(平成21年)のことである。逗子葉山倫理法人会の立ち上げに携わった中筋氏は、倫理法人会会員拡大のために同友会に入会したのだという。「でも、倫理法人会ではミイラ取りがミイラになったと言われています。」と笑う。2011年(平成23年)には経営指針第38部会を受講し、2012年~2018年には経営労働委員会副委員長、2019年からは県南支部長を務めている。
それだけではなく、2014年には同友会内で人生の伴侶も見つけた。実は、28歳の時に一度結婚しているそうだが、価値観の違いからわずか数ヶ月で離婚。「それ以来、自分は結婚には向かないと思っていたのですが・・・。」と、中筋氏。
現在は、奥様と旅行をしたり山に登ったりと、価値観も相性も良く、幸せを満喫している。登山経験は皆無だった奥様だが、今年9月は一緒に奥穂高アタックに挑むほど体力も付けた(天候不順のため涸沢で断念)。もちろん、旅行の際も九星気学で吉方位を確かめてからでかけるのだとか。
現在、事務所には女性社員が4名。九星気学に導かれ、事業も人生も順風満帆のようである。
因みに、本名は宣貴だか、九星気学により、通り名として「悠貴」を選名したという。社名の「天地人」も画数を二画増やすために「天・地・人」に変更したのだそうだ。
今後の仕事について尋ねると、「手続き関係業務は将来縮小していくと思われるので、会社の社外人事部として、会社の労務相談や就業規則など、より一層クライアント企業に寄り添ったお手伝いをしていきたいですね。」と、語ってくれた。
横浜労務総合オフィス/株式会社天・地・人
本社所在地:神奈川県横浜市戸塚区品濃町557-1 第3常盤ビル201号
TEL:045-820-6777
URL:https://www.y-roumu.com/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>