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神奈川県中小企業家同友会
10:00〜18:00(月〜金)

株式会社フェアネスコーポレーション 代表取締役 金子厚子氏

人事コンサルタントは天職だと
言い切る姿勢に覚悟が見えた

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏

神奈川同友会には女性会員も多数在籍しているが、数多の会員から人事コンサルタントとして頼りにされている女性会員が「株式会社フェアネス・コーポレーション」代表取締役の金子厚子さんである。コロナ禍を経て、今年移転したばかりの日吉駅近くにある事務所にお邪魔し、お話を伺った。

生まれつき心臓病を抱え、1歳で大手術

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏
生まれたときは心臓に疾患を抱えていた

1964年、富山で建築関係のサラリーマンだった父と、専業主婦の母のもとに長女として生まれた。2歳違いの兄がいる。

実は、金子さんは生まれつき心臓に病を持っていた。「動脈管開存症」だった。これは、出産後自然閉鎖するはずの動脈管が開き続けてしまう病気である。1歳半を迎えたときに心臓手術が行われ、なんとテレビ取材も入ったという。当然、周囲からは労わられながら大切に育てられ、本を読むのが好きな大人しい子供として育っていった。

4歳のときに、石川県金沢市に転居した。その翌年には父が友人4人とコンピュータソフトの会社を起業する。加賀百万石の伝統が色濃く残る金沢で、両親からは良き妻となることを願って育てられた。

幼稚園に入園すると、オルガン教室に入った。しかし、「とても不器用だったので、すぐにやめようと思いました。すると、先生から絶対音感があるからもったいないと言われ、続けることにしたのです。」これが金子さんの音楽との出会いとなった。

その後、金沢市立額(ぬか)小学校に入学すると、ピアノを習い始めた。本人は、「病弱だったため、2年生まで体育は見学でしたし、おとなしい子供でした。」と語るが、兄と取っ組み合いのけんかをすることも多く、クラスで男子からいたずらされる女子がいると、頼られて仕返しをしにいっていたというから、どうやら大人しいばかりでもなかったようだ。児童会の副会長に選出されるなど、人望も厚かったようである。

当時の遊びをたずねると、「2年生の時はまりつき、3年生ではお手玉、4年生の時にはメンコに夢中でした。」と、昭和ならではの遊びを次々と挙げた。そして、5年生になると、クラブ活動が始まり、音楽部に入部した。

吹奏楽アンサンブルコンテスト全国大会に進出

金沢市立額中学校に進学すると、迷わず吹奏楽部に入部する。選んだ楽器は、フルートだった。優雅な雰囲気に憧れてのことだった。

「金沢市の南端で、山や田園に囲まれたのどかな地域でした。」

吹奏楽部もそれほど熱心な活動はしておらず、コンクールにも参加していなかった。

ところが、県内屈指の進学校である石川県立金沢泉丘高校に進学し、先輩に誘われるままに吹奏楽部に入部すると、そこには高校ОBであり、当時はまだ大学生だった指揮者の厳しい指導が待っていた。のちに県立小松明峰高校を全国吹奏楽コンクールで石川県初の金賞に導いたことで知られる斉藤忠直氏である。「フルートのパートは下手すぎて、『がんパート』と呼ばれ、すごく悔しい思いをしました。」と、金子さん。それから必死で練習を重ね、2年生になると「黄金パート」と呼ばれるまでになったと笑う。フルート四重奏でアンサンブルコンテストの全国大会にも進出したというから、その実力は本物だ。しかし、そのころはまだその後もフルートを吹き続ける人生になろうとは思ってもみなかった。

文化祭の野外劇でヒロインに

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏
大好きなウルトラマンと記念撮影

金沢泉丘高校は国立大学に進学する生徒が3割もいる県内屈指の進学校である。だから、金子さんも3年生になると受験勉強に没頭することになるはずだったが・・・。

「一人暮らしの同級生の家に集まってマージャンをしたり、授業をさぼって喫茶店にいったりしていました。今だったら大問題になるのでしょうけれど、当時はのどかでしたね。」と、笑う。マージャンも花札も小学生の頃に父が教えてくれたのだと教えてくれた。

進学校だった金沢泉丘高校では、部活動は二年生の秋で引退だったが、文化祭では三年生がクラス毎に野外劇を披露するのが慣例だった。そこで、金子さんのクラスが演じたのはオリジナル脚本「ラ・ベルサイユ」。金子さんはヒロインであるマリーアントワネットの異母妹を演じたそうだ。

しかし、進学先として両親が認めたのは、地元の金沢大学以外、私立は日本女子大学他首都圏の数校のみだった。そこで、友人と共に東京の大学に行きたいと考えていた金子さんは、日本女子大の文学部国文科に進学することにした。

フラメンコギタリストのバックバンドで演奏

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏
大学4年生から社会人1年目までは、2か月に1回、吉祥寺曼荼羅ライブハウスでフルートを演奏していました。

進学した大学には、オーケストラがなかった。そこで、ジャズ系のポップスオーケストラ部に入部することにした。大学4年生の時には、数人で「マカレーナ」というユニットを組み、フラメンコギタリスト・飯ケ谷守康氏のバックバンドとしてプロ活動もしていたという。

その傍ら、ボーイフレンドとバイクで江の島やできたばかりのディズニーランドに遊びに行ったりと、大学生活も満喫していた。

実は、両親は金子さんに金沢で学校の先生になって欲しいと考えていたという。その気持ちを汲んで教職も履修してはいたが、金子さんにはまだ金沢に帰るつもりはなかった。そこで、父に交渉を重ね、日本電気株式会社(NEC)に入社した。

終業後はディスコに直行!

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏
1989年、25歳の時。 実家にて

配属されたのは、資材部だった。そして、始まったのが、絵に描いたような花のOL生活である。勤務終了とともにロッカーに向かい、マニュキアを塗ってディスコに出かけた。時には、お立ち台に乗って踊ったこともあるという。

そんな生活が4年続いた26歳のころ、もう実家に帰ってくるよう連絡が入った。そろそろ結婚を考えてほしいという親心である。帰郷して、お見合いをした。

「そのころ、私は恋愛と結婚は別だという思いを持つようになっていました。結婚は家庭という社会をつくるパートナーだと考えるようになっていたのです。」

そして、お茶の先生の紹介で知り合ったのが、当時公務員だった現在のご主人だった。

「お見合いというものではなく、先生が企画した『高岡に鮎を食べに行こう』というイベントのバスで隣り合わせになった方です。あとで思うと、先生のご配慮だったようですが、主人は金沢に出張に来て参加したそうです。」

その後も何回か会ううちに意気投合し、半年後には結納を交わして結婚した。

夫は公務員で転勤族
待っていたのは13年間の専業主婦生活

結婚と同時に京都に住まいを移した。そして、ここから転勤生活が始まった。翌年の3月には山形県鶴岡市に、その後、大阪府池田市、秋田県大仙市、東京都世田谷区成城と、転勤を重ねた。専業主婦として、子育てに専念する日々が続いた。そんな中でも、大阪ではママ友に請われてフルート教室を開催、秋田では市民オーケストラに参加するなど、フルートが心の支えとなっていた。

そして、40歳の時、横浜市日吉に引っ越して来る。その間、山形で長女が、大阪で次女が生まれていた。「子供を心身共に健やかに育てる」というのが、夫婦が共有する理念だったそうだ。幼稚園のPTA会長も進んで引き受けた。そのときの経験とスキルが、今も役に立っている。

そして、次女が小学校に入学したこの年、派遣社員として働き始めた。13年間の専業主婦期間というブランクは長く、社員としての雇用は困難だった。それでも、子育てを一番に考えてきたことを後悔することはなかった。

人事コンサルティングの会社で
「東の金子」と呼ばれ、ついに起業

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏

2006年、42歳の時、人事コンサルティングの会社でフリーランスの人事評価専門家として働くことになる。課題をこなし、合格すると現場に出られた。そして、5年間で7,000人もの人事評価に携わった。中でも、ストレス耐性を見るために段階的にプレッシャーを与える管理職の昇進・昇格試験への対応は高く評価され、「東の金子」と呼ばれるほどであったという。

「人材アセスメントは天職だと思っています。」と、金子さん。仕事に向かい合う覚悟のようなものを感じるひと言が返ってきた。

2009年に尊敬していた父が亡くなった。そして、その翌年にはフルートの師が亡くなった。どちらの葬儀にも、大勢の人々が駆けつけて涙した。二人がこんなにもたくさんの人々に影響を与えてきたことに、心が大きく揺さぶられた。

自分も人々の心に残る仕事をしたい。2011年、47歳の時、思い切って自宅で起業した。しかし、顧客がついているわけではない。最初は行政にメールや電話をしてみたが、当然ながら反応は一つも返ってこなかった。中小企業の役に立つ仕事をしたいと考えていた金子さんは、まずは中小企業のことを勉強しようと思い立つ。すると、友人が東京同友会の話をしていたことを思い出した。思い切って、神奈川同友会の事務局に電話をしてみた。
当時は紹介者がいないと入会できなかったので、東京同友会に入会していた友人の名前を拝借した。事後承諾であった。オブザーバーとして例会に参加すると、すぐに入会し、誘われたイベントにはできる限り参加した。この時に築いた人的ネットワークが今の仕事につながっていることは言うまでもない。

人事コンサルタントとして信頼を得ている理由とは?

株式会社フェアネス・コーポレーション 代表取締役 金子厚子氏

金子さんの仕事は、人事コンサルティング事業。アセスメントによる分析を活用して、採用・育成のお手伝い等をする会社である。例えば「BーCAVⅡ」というフィードバックシートを用いた公正なデータを基に人の適性を分析し、人事課題を解決し、人・仕事・組織の最適化をはかる専門コンサルティングを提供している。

データに基づく適性分析は、受検者の課題発見や、人と企業の適切なマッチングをするのに役立つ。だから、組織内の適切な部署への社員の配置も提言できる。時には、本人さえも気づいていない潜在能力に気づき、組織にも人にも幸せなマッチングを生み出すことさえある。コンサルティングのプロの支援力は計り知れない。

ところで、コンサルティングの企業や人は数多あるが、企業の信頼を勝ち得ているコンサルタントはそう多くはない。金子さんの仕事は、ヒアリングを丁寧に行うことから始まる。時には人には聞かれたくない話のこともあるし、中小企業の中には会議室がない会社もある。
そこで、2015年に東京、横浜、川崎のいずれからもアクセスが良い武蔵小杉にオフィスを構えた。しかし、コロナ禍を経て、今年自宅に近い日吉に事務所を移転した。フットワークが良くなり、孫が生まれた長女の手伝いも可能になったと笑顔がこぼれる。

一方で、転勤族であるご主人は、娘の学校の都合で単身赴任が続いていたそうだ。それでも、「理念共有家族」である家族の絆は揺るがない。だからこそ、金子さんの挑戦は続く。

常に学び続けることを信条とし、2021年には日本初の心理職国家資格である「公認心理師」を取得。今春には、第61期経営指針作成部会の参加を決めた。そこで、今後の展望をじっくり考えたいという。
年内には、ギャラクシー出版から本も出版予定だ。タイトルは未定だが、テーマは「豊かな人生を送るヒント」だと目を輝かせた。

そんな金子さんの気分転換は、やはりフルート。一時、師を亡くし中断していたが、師の二番弟子だった方に師事し、また吹き始めたのだそうだ。そして、もう一つがお酒。大のお酒好きとして知られるが、イタリアワインのバローロと、「酒造りの神様」の異名をもつ日本最高峰の醸造家、杜氏農口尚彦が作る能登の銘酒「農口(のぐち)」がお気に入りだと勧めてくれた。

企業情報

株式会社フェアネス・コーポレーション
本社所在地:横浜市港北区日吉本町1丁目6-22
TEL:045-884-8080
URL:https://www.fairness-corp.jp

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>