2020年度から2021年度まで2年間、ダイバーシティ委員会の委員長を務めていた。自社の社内では、40年以上にわたり外国人や障がい者がごく自然に活躍している。それを率いる有限会社川田製作所の川田俊介社長からは、ダイバーシティという気負いは少しも感じられない。
川田氏が、有名IT企業を退社して、先代が築いた川田製作所を継いだのは、40歳の時のことであった。
祖父は熱海市の職員だったが、職務中に波にさらわれ、父が小学校6年生の時に死亡。残された祖母は4人の子どもを女手一つで育ててきた。長男だった川田氏の父は中学を卒業すると上京し、板金・プレスの会社で働き始めている。
その後、結婚した父は、娘を授かる。そして、1969年(昭和44年)、30才で小田原に工場を構えて独立し、祖母と二人の弟妹を呼び寄せ、一家を支えた。その翌年、1970年(昭和45年)に生まれたのが、現社長である川田俊介氏である。
その後、父の事業は高度成長期とあって順調に拡大していった。工場を三ヶ所まで増やし、1973年(昭和48年)に法人化して「有限会社川田製作所」となった。最盛期には40名もの従業員を抱え、大手電機会社の下請けとして金属部品のプレス加工や、カメラの組み立て作業を請け負っていたという。
母も父と共に家業を支えていたため、幼少期の川田氏は0才から保育園に通っていた。外遊びが好きなこどもで、「今とは違い、やんちゃな子どもでした。」と笑う。
入学したのは小田原市立矢作小学校で、そこで2年生までを過ごしている。
「この頃はスイミングスクールに通っていました。校内の段位認定では最上位をもらいましたから、水泳は得意な方だったと思います。」
やがて3年生になると足柄上郡大井町に引っ越し、上大井小学校に転校した。姉の影響でピアノを習う一方で、友人に誘われて柔道の道場にも通った。
幼少期からのやんちゃぶりは変わらず、「担任の先生に友人と共に5~6人立たされてビンタされたこともあります。理由は忘れてしまいましたが・・・。」と、川田氏。その先生には今も可愛がられているそうだ。
やがて、足柄上郡大井町立湘光中学校に進学すると、野球部に入部した。3年夏の大会前には早朝5時から朝練をした。朝早かったため、祖母の介護で使い不要になっていた呼び鈴を自室に配線し、友人が外からピンポンできるようにしたというから驚く。今なら問題になるのだろうが、初めてお酒を飲んだのもこの頃のこと。また、小学生時代に父から教わったマージャンを友人と共に楽しむこともしばしばだったらしい。
「昔はこたつ板をひっくりかえすとマージャン卓になったのです。」
家庭マージャンが盛んな時代だった。
進学したのは、進学校として知られる神奈川県立小田原高等学校だった。そこで、2年次より水泳部に入部する。
「友人に誘われて仲間3人ほどと、途中入部したのです。夏には2泊3日の合宿もあり、1日10キロぐらい泳ぎました。まず、朝起きると1,500m泳ぐんです。」
今なら停学処分になりそうだが、「高校三年の時には酔って終電を逃し、学校に忍び込んで夜中にプールで泳いだこともあります。」と、映画の一場面のような青春の思い出も語ってくれた。
そして、現役で中央大学理工学部精密機械工学科に入学する。
「家業を継ぐかどうかは決めていませんでしたが、家業を意識してのことでした。」
だが、選択したのはロボットプログラムの研究室だった。実は、中学生の頃からパソコンに興味を持ち、すでにプログラミングをしていたそうだ。
一方で、大学時代にはサークル活動はせず、リゾート地でのアルバイトに打ち込んでいた。箱根のホテルで住み込みのアルバイトをしたり、週末に軽井沢のホテルで結婚式のウエイターをしたりした。また、赤倉のホテルで1か月半アルバイトをしたときには、休み時間にスキーもできて楽しかったと懐かしそうに語る。「アルバイト代がすごくよかったから。」と、笑うが、今も旅行が趣味。運転免許証は、高校3年生の一学期に取得済み。だから、父の車を借りてよくドライブにもでかけていた。
一方で、大学2年次より一人暮らしを始めている。最初は世田谷区、やがて葛飾区に引っ越した。もっぱら自炊をする日々。得意料理はパスタだったと笑った。
1993年、IT大手の富士通にシステムエンジニアとして入社した。当時はバブル景気最終期で、2,000人もの学生が採用されたという。配属先は、千葉県船橋市にあった法務省のシステムセンターに隣接する、官公庁担当のステム事業部だった。
20代後半に社内恋愛をし、33才で結婚した。仕事仲間にも恵まれ、充実した生活を謳歌していたのだが、37才になったとき、すでに67才になっていた父から「改めて話をする機会を作って欲しい」と頼まれた。家業を継ぐ意思があるのかどうかの打診だった。
すぐには返事ができなかった。しかし、父母が苦労して築いてきた会社をここで終わらせてしまうことは、どうしてもできなかった。
今後やりたい仕事は富士通にあるのかと、自問自答した。川田製作所の方がやりがいがあると思った。だから、数か月後に会社を継ぐ決心をし、3年後、単身小田原に帰ってきた。
実は、その時、登記上はすでに取締役になっていた。そこで、入社と同時に副社長に就任している。幸い工場長がいて、現場を回してくれていたので、自身は現場での仕事ではなく、システムエンジニアとしての経験を活かし、事業の管理、IT化に取り組んだ。前職の経験を今後の会社の強みにしていきたいと考えてのことだった。そして、製造や品質管理のデジタル化と高度化、情報共有や伝達のスピードアップを実現。さらに、業務のクラウド化やペーパーレス化にも取り組み、現在、社内のクラウド化90%、ペーパーレス化99%を達成している。
当時は、社員の高齢化も課題だった。社員の7割が55才以上だった。若い人を採用し、中堅のリーダーにしたいと考えた。現在は、社員17人のうち障がい者が5名、外国人が2人働いている。彼らの勤勉な働きぶりと労働意欲、価値観が、ほかの社員の良い刺激になっていると目を細める。
しかし、大手の下請けである金属加工の仕事は、受注数の波が大きい。そこで、入社以来、販路拡大に積極的に取り組んできた。それと並行して、事業の持続性を考え、2018年に植物工場に注目し、取り組み始めた。最初は、本社社屋内に実験プラント「水の野菜Lab」を設立し、工場建設用地を探した。2019年に社長に就任すると、植物工場の建設に注力していく。
そのころ、コロナ禍が始まる。金属加工の受注が減少する中、2020年に父が地元のネットワークを活用して耕作放棄農地を見つけてきた。しかし、そこには行政手続きの壁が立ちはだかった。かつては、植物工場は、農地として登録できなかった。2018に農業経営基盤強化促進法等の一部が改正されて、植物工場の農地利用が可能になったが、まだ実例が乏しく、足柄上郡では前例がなかったのである。役所に日参して、突破口を探る日々が続いた。
しかも、川田製作所は農業従事者ではないので、農地の購入ができないということが判明。農業従事者として認められるためには、30アール以上の農地確保が必要だった。そこで、賃貸契約を含めて30アール以上の農地を確保し、農業法人「株式会社グッドファーム」を設立した。
しかし、障壁ばかりではなかった。コロナ禍に事業再構築助成金が政府から発表されたのだ。植物工場の投資回収にはかなり時間がかかりそうだと考えていたが、助成金を得ることで、先行きが明るくなった。
ところで、植物工場の実験施設は、当初から障がい者の社員に取り組んでもらうことを前提にしていた。40年以上障がい者雇用を継続してきた川田製作所だからこその計画である。3年間にわたり実験栽培を重ね、フリルレタス、ベビーリーフなどの安定収穫に成功し、2023年10月、就労継続支援B型事業所として、農福連携の植物工場が稼働し始めた。現在、地元小売店やレストランなどに卸し始めている。今後は利用者の増加と販路拡大が課題だ。
社長として奔走する川田氏の趣味は旅行である。実は、富士通を退社した時にヤフオクでキャンピングカーを購入し、国内各地を旅行した。国内はすでに全県を制覇したという。中でも、沖縄が好きで、10回以上訪れている。一方で、アジア、北米、ヨーロッパなどの海外へも出かけた。多様性をごく自然に受け入れる土壌は、世界各地を巡って醸成されたものなのかもしれない。
この時購入したキャンピングカーは、その後、ボディの色をオレンジ色に変えて、コロナ禍前まで出張町工場として活躍していた。
今後の抱負を尋ねると、「川田製作所はモノづくりの企業としてより成長し、グッドファームは地域に定着し貢献する企業となって欲しいですね。」と語ってくれた。グッドファームでは、今後はレストランの要望に応じてハーブの栽培もしていきたいと語る。すでに試験栽培も始まっていた。今後、グッドファームが、地元農業の高齢化や耕作放棄などの問題解決に一役買う日も来るのかもしれない。
有限会社川田製作所
本社所在地:小田原市中新田294‐1
TEL:0465-48-8696
URL:https://www.kawada-ss.co.jp
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>