サラリーマンをしていたある日、事業経営者だった父が急逝し、突然40億円の負債を背負った株式会社ユサワフードシステムの湯澤剛社長。
借金返済のいきさつと返済に奮闘する日々の詳細は著書「ある日突然40億円の借金を背負う❘それでも人生はなんとかなる。」(PHP刊)に詳しいが、その素顔は・・・。
そこで、今回は湯澤氏にお話を伺ってみた。
湯澤氏は、1962年10月、鎌倉市大船で、中華料理店を営む両親のもとに4人兄弟の長男として生まれた。この父が剛腕・豪快な人で、バブルの波に乗って次々に事業を拡大し、のちに莫大な借金を残して急逝することになる。
湯澤氏が小学生になった時には、店舗はすでに5店舗に拡大され、両親は常に忙しく働いていた。そのため、湯澤氏は一人で読書をする、内向的でちょっと大人びた少年に育っていったという。それを表すエピソードが小学校時代に残っていた。
当時、県内随一のマンモス校(一学年10クラス)に通っていた湯澤少年は、皆がコミカルな劇を演じる中、何と立候補をして一人だけ本の朗読をしたという。その時選んだのが、芥川龍之介著「杜子春」だったというから、その早熟さには驚く。
さらに、自分を強くしたいと空手を始めたのもこの頃のことであった。今も続く格闘技好きは、どうやらこの頃始まったようだ。
兄弟が多く、すぐ下の弟と5歳離れていた湯澤氏は、仕事や育児で多忙な両親の思いを受け、全寮制の山手学院中学校・高等学校に入学した。
「きつかったですよ。先輩との人間関係が厳しく、いじめもありました。」
中学では、野球部に入部した。希望したわけではなかった。
先輩に強引に引っ張られての入部だった。ポジションはライト。
それでも、高校まで野球を続けた。
厳しさに耐える精神力は、もしかしたらこのときに養われたのかもしれない。
途中、交換留学で高校2年生の時にアメリカ・ワシントン州シアトルに留学した。
この時、日本人は学校内に一人だけ。
最初は英語がわからず苦労したが、レスリング部に入部すると、次第に周囲に溶け込んでいった。
だが、当時は留学時の単位が日本の学校では認められていなかったため、高校は1年長く在籍したという。
そして、現役で早稲田大学法学部に入学。弁護士を目指してのことだった。
しかし、入学してみると、司法試験を目指して留年している学生がたくさんいた。
それを見て、すぐに挫折し、サーフィンやスキーを楽しむ優雅な学生生活を堪能することに・・・。
当時は父の事業は順調で、グループで50店舗に拡大し、年商100億を売り上げるまでになっていた。そこで、湯澤氏も都内にワンルームマンションを借りてもらい、父が保有する伊東や苗場のリゾートマンションへ愛車の赤いフォルクスワーゲンGolfを走らせる、学生としては破格の生活を楽しんでいたという。
しかも、アルバイトはせず、株式投資で稼いでいたというから、さらに驚く。
「両親に100万円借りて、株式投資を始めました。当時、300万円ぐらい儲けました。株の天才ではないかと思ったぐらいです(笑)。 儲けの半分は利息として両親に返しました。」
株で儲けたお金で、海外旅行をした。イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパをはじめ、ハワイやバリ島も訪れている。語学は大学一年生の時に英検一級を取得するほど、得意だった。
「まさに最高の人生を謳歌していました!」と、湯澤氏。
このときは、まさかその後の人生が真逆になるとは、思ってもみなかったのである。
いつも忙しくしていた父は、とても怖い存在だったという。
父になじめず、反発する気持ちもあり、大学卒業後は父の申し出を蹴って、父の会社とは取引がなかった「キリンビール株式会社」に入社した。
父を見返してやりたいという気持ちでいっぱいだった。
1987年の入社時は鼻息荒く、当然海外事業部に配属されるものと考えていたという。
だが、配属されたのは、名古屋支社の営業部だった。
当時、ビール業界は「アサヒスーパードライ」の発売で、キリンビールの天下からアサヒビールの時代に突入していた。それまでトップ企業として君臨してきたキリンビールの営業社員への風当たりは、相当強かったと湯澤氏は振り返る。
どこへ行っても、けんもほろろの扱いだった。
八方塞がりだったこのときに湯澤氏が思いついたのが、「一点突破」だった。どんな時代にも、キリンビールファンは必ずいる。
そこを攻め、そこから広げていく戦略である。
この「一点突破法」が、後に湯澤氏の借金返済の大きな力になっていくことになる。
几帳面で、論理的に考えることが得意な湯澤氏は、このときの営業方法をマニュアル化し、それが会社で認められ、表彰までされている。
着々と社内で力をつけていった湯澤氏が、次に移動を命じられたのがニューヨークへの転勤であった。
本社人事部所属での移動で、アメリカのスーパーマーケットへの売り込みと、ニューヨーク大学でのグローバル人材育成プログラムの受講が任務だったが、トランプタワーからわずか徒歩5分のところにあるマンハッタンのマンションに住み、ブロードウェイもすぐそこというニューヨークでの夢のような生活を2年間思う存分満喫した。
31歳で帰国すると、いよいよ念願の海外事業部勤務になる。
海外ビジネスのまっただ中に身を置き、35歳で法政大学にてMBAも取得した。
上海、北京、台湾、韓国と、主にアジアにある子会社の窓口となり、ビジネスのサポートを行った。
このとき、小さな会社の財務・経理・マーケティングにいたるまで全面サポートしていた知識が、借金返済時の大きな力になったと湯澤氏は語る。
997年、名古屋支社時代の2歳年下の同僚と結婚。
2人で海外旅行を楽しむ、この上ない生活を楽しんでいた湯澤氏の人生をひっくり返したのは、1999年1月の父の逝去だった。
それまで、父との接点を避けてきた湯澤氏は、長男でありながらも、父の会社を継ぐ気は少しもなかったという。
だから、父の会社が置かれた状況さえ全く知らずに過ごしていた。
ところが、あれほど大きく感じていた父が亡くなった後、残されていたのは63億円の借金だった。
すでに皆さんがご存じの40億円の借金ではなく、63億円の借金だったのである!葬儀も終わらぬ中、やってきたのは取引銀行の都市銀行と地元の信用金庫だった。
本社にいるのはパートの女性だけ。
一日として立ち止まることができない経営状況の中、次々と決済処理をする内に、いつの間にか「社長」と呼ばれていた。
3億円は不動産整理などですぐに返済した。中華料理やイタリア料理部門がメインの20億円は、弟が継いだ。
湯澤氏が継いだのは、居酒屋部門などがメインの40億円だった。その返済のいきさつや苦労話は、湯澤剛著「ある日突然40億円の借金を背負う❘それでも人生はなんとかなる。」(PHP刊)に詳しい。
次々に襲う試練の連続の中で、それでもそれらを受け入れ、立ち向かってきた闘争の日々が克明に描かれている。
実は、父の逝去の翌年に、奥様は第一子となる長男を出産している。そんな状況で、法学部を卒業している湯澤氏がなぜ相続放棄を選択しなかったのだろうか?多くの人が疑問を持つ部分である。
「もちろん相続放棄のことは知っていました。ですが、母が連帯保証人になっていて、60歳を過ぎた母にすべてを背負わせることはできませんでした。当時100人いた社員や取引先の方々の生活も守りたかった」
そして、もう一つ疑問に思うことが、湯澤氏が借金を相続することを受け入れた奥様のこと。相続の際には、奥様から話を聞いた義父が、すぐに湯澤氏のもとを訪れている。
「心配しなくていい。体に気を付けて、やるべきことをやりなさい。」と。元気づけてくれたという。
キリンビールで経理を担当していた奥様は、相続後も臨月のお腹を抱えて、経理を担ってくれた。
しかも、「一度も愚痴や不平不満を聞いたことがない」と、語る。そこには、湯澤氏への深い愛情とともに、大きな信頼感が感じられる。
「この人なら、きっと大丈夫。乗り越えられる。」と考えていたのに違いない。
そんな奥様が湯澤氏に唯一願うのが、「子供たちには事業の継承ではなく、望む道を歩ませてあげて欲しい。」ということ。
現在大学2年生と高校3年生の2人の男子の父なのだが、2人とも柔道部で、どうやら父の格闘技好きの血を受け継いでいるらしい。
2017年、40億円の借金は、ほぼ完済。現在、会社を2つに分け、13店舗のうち10店舗はスポンサーをつけて社員の独立をサポートし、残りの3店舗の経営だけを湯澤氏が直接担っている。
それでも、売り上げは、18億円。
店舗を集約することにより、個々の売り上げは伸び、利益率が高くなっているというから、経営手腕は秀逸というほかはない。
これら飲食事業の他、不動産賃貸事業、勇気事業と名付けられた講演・出版・コンサルティングの事業も営んでいる。
同友会への入会は、借金の目途が付き始めた2008年のこと。
今後は人を生かす経営をしていきたいと、自ら事務局に電話をかけて入会した。
その思いの通り、社員の独立を助ける事業展開をするまでになり、さらに、多くの同友会会員の個別相談にも乗り、勇気づけ続けている。
最後に湯澤氏に今後への思いを伺うと、「子供との時間を過ごせない期間が長かった。取り返しのつかない時代を過ごしてきました。遅ればせながら、これからは共に過ごす時間を大切にしていきたい。」と、語ってくれた。
株式会社ユサワフードシステム
本社所在地:鎌倉市大船1-23-22 4F
URL:https://yusawafs.co.jp