180cmの大きな体に、人なつっこい笑顔。決して偉ぶることがなく、人との間に垣根を作らない人柄は、老若男女から慕われている。
だからこそ世界中に人脈のネットワークを持つ。今回は、翻訳サービスを営む「エヌ・エイ・アイ株式会社」代表取締役社長の伊藤 秀司氏にお話を伺った。
生まれたときから、5000gのビッグベビーだった。
1958年(昭和33年)、横浜市神奈川区生まれ。父は、戦後、母方の祖父の会社を継ぐべく入社したが、その後母方の祖父は会社を第三者に譲渡してしまった。その結果、入社してから73歳で退職するまで、ずっと中小企業の取締役工場長のままで終わった。兄と姉がいる三兄弟の末っ子で、そんな悔しさを持った父の期待を一身に受けて厳しく育てられた兄とは異なり、母に可愛がられて育ったという。
「体が大きいので、ドンくさい子供でした。比較的成績は良い方だったのですが、体育だけは1でした。悔しかったです。今思えば、その悔しさが全てのスタートだったような気がします。もっとハンサムに生まれたかったしね。(笑)それらのコンプレックスをプラスに変えるべく頑張った人生であるように思います。」と、伊藤氏。
一方で、幼稚園時代は母のすすめで習い始めたピアノ教室で、グランドピアノの鍵盤に乗って遊んでしまうようなやんちゃな一面も持っていた。ピアノの先生から「残念ながら、お宅のお子さんには教えられません。」と、お断りがあったというから、相当な悪ガキぶりである。父の思いを背負って、聖ヨゼフ学園小学校から栄光学園、一橋大学と進学した兄に比べると、母の教育方針で自由放任に育てられ、横浜国立大学教育学部附属横浜小学校時代はボーイスカウトに夢中になり、学校ではレクリエーション委員長を務めた。
横浜国立大学教育学部附属横浜中学校に進学すると、バレー部に3ヶ月、バドミントン部に1週間、そして最後は友人に誘われて野球部に入った。運動は苦手だが、嫌いではなかったという。むしろ、できないことをできるようにすることの喜びを感じていた。勉強は努力で身につけられるが、運動には超えられない壁がある。だからこそ一生懸命になれると語る。
その負けず嫌いぶりは、26才で始めたゴルフにも発揮されている。元々左利きである伊藤氏は、最初の一年はレフティーでコースを回った。しかし練習場で右利き用の打席と対面になるのが嫌だというだけで、近所の公園で右打ちの練習を開始した。そして、100を切るスコアを目指して練習を重ね、半年後に見事に、右打ちに変えグリーン再デビューを果たしている。その後右打ちで100を切るには、20年近い月日がかかったが・・・。
一方、中学時代の伊藤少年は負けず嫌いなだけでなく、とても正義感の強い少年だったようだ。
「学校で球技大会があったのですが、私と同様毎日きちんとバレーボールの練習に参加している女性がいました。その時のキャプテンは、勉強も運動も、何でもできる男子でした。ところが、試合が進み、どんどん勝ち進んでいく中で、キャプテンは一度もその女性を試合に出場させることはありませんでした。そこで、私はそれに猛然と異議を唱えたのです。毎日練習に参加したにも関わらず、一度もチャンスを与えないことにどうしても納得できず、最後は殴り合いのけんかになりました。クラブ活動ではなく球技大会です。学校の行事です。参加することに意義があるはずです。ほんの少しでもいいから参加させてあげるべきだと私は考えました。」
その一方で、一目惚れしやすく、もちろん時期は数か月ずつずれていたらしいが、習いたての英語で書いたラブレターを、別々の女子の下駄箱に3回も入れるような、お茶目な中学生だったと笑う。中学から大学まで、何と23回連続の失恋記録があるのだそうだ。
それでも、アルバムを見せていただくと、高校時代以降は、女の子と並んだり腕を組んだりした写真がとてもたくさんあった。実は、本人の認識とは異なり、モテ男だったのかもしれない。
その後、神奈川県立光陵高校に進学すると、当時は軟式野球部しか無かったのが幸いし、運動神経が鈍くても大丈夫だと判断し、やはり野球部に入った。
野球は好きでした。レギュラーを目指して頑張りましたが、実は、高校2年の時にアメリカに1年間留学することになったのです。私は野球を続けたいと思っていましたが、父が兄と同じように留学させてやりたいと考えたようです。なかなか決心できずにいると、野球部の友人達が『俺たちにはないチャンスなんだから、行ってこいよ。』と、背中を押してくれました。」
そして、カナダに近いウイスコンシン州トゥーリバースのカトリック系私立高校に留学しました。
「留学したからには精一杯できることをやろうと思い、まずはアメフト部に入部しました。二軍戦には出させてもらいましたが、体格差に仰天。ラインの一部を守っていたのですが、ディフェンスラインに顎からタックルされ、脳震盪を起こしてしまったこともあります。夏のアメフトシーズンが終わると、バスケットにトライアウト、しかしバスケットではあまりに動きが鈍くて、わずか1週間でコーチに断られてしまいました。」
すると、すぐに気持ちを切り替えて、パーティ三昧に・・・。学生生活を思い切りエンジョイした。だから、友人はたくさんできた。その上、ホームステイ先の一家は子供が13人もいる家庭だったため、2才年下の男の子とルームシェアすることになり、自然と仲良くなっていった。実は、その後20年以上交流が途絶えていたのだが、7~8年前に思いがけずSNSでつながり、ホームステイ先の兄弟7人を日本に招待している。
楽しかった留学生活だったが、日本に帰るとアメリカでの学校生活は単位として認められず、同級生とは1年遅れて高校生活を再開することになる。兄と同じ国立大学を目指して、猛勉強の日々が始まった。
毎朝、学校が開門する前の早朝6時半に登校し、用務員代行のアルバイトをしていた同級生をたたき起こして門を開けてもらい、勉強した。すると、仲間が次々と集まってきた。
「留年したおかげで、友人がダブルでできました。」と、顔をほころばせた。
しかし、国立大学合格は叶わなかった。入学したのは、慶応大学経済学部だった。日吉の銀杏並木を高下駄を履いて歩く、異色の慶大生だったという。
早速、体育会のヨット部に入部した。しかし、元来運動が苦手な伊藤氏である。
合宿に2回ほど参加した後、すぐに退部した。その後は、ビブレ1階にあったマクドナルドでアルバイトに励んだ。
その頃、雑誌で劇団員募集の記事を見つけた。小田原の劇団だったが、早速入団した。
一度だけだが、ギリシ悲劇「アンチゴーヌ」で王クレオン役として舞台に立っている。
その頃、ゼミの先輩が新しいサークルを紹介してくれた。フェリス女学院大学と合同のテニスサークルだった。その後サークル活動にのめり込んでいったのは言うまでもない。
時代は高度成長期である。卒業旅行にはスキーに出かけた。そのスキー場で知り合ったのが、現在の奥様である。
スキーが初めてだったにも関わらず頂上まで連れて行かれてしまった奥様に付き添い、ゆっくり2時間かけて滑り降りたのが、お付き合いの始まりだったという。
就職したのは、某有名マンション系ゼネコンの不動産部だった。3,000坪以上の土地を探してくるのが仕事だった。
ノルマもきつかった。自分には合わないと半年で退職し、塾でアルバイトをしながら、教師を目指して中央大学の英文科に学士編入した。
だが、反対したのは奥様だった。そこで、求人広告を見て「株式会社日貿信」に転職することになる。前身は戦前3つあった中央銀行のひとつである「台湾銀行」(他日本銀行、朝鮮銀行)。26才の時のことである。この時期に結婚もしている。
バブル期の資金運用部門を経て半年間ロンドンで研修した後、国際部に配属となり、ニューヨークに4年間駐在した。
だが、バブルが崩壊する。帰国後は、国内の回収部隊として北関東を担当しながら、転職先を探した。見つけたのは、とある大阪二部上場の土木機械系の会社だった。数百人の応募の中から唯一人採用され、国際部に配属された。
ところが、すぐに後悔した。2週間の研修の後東京本社勤務になったのだが、13日間にわたる管理職向けの地獄の特訓合宿に参加させられたのである。
「夜間の40km歩行をさせられました。77人中7番になり、自信にはなりましたが・・・。」
その後、木場公園の護岸工事で現場研修を行い、オランダの現地法人に1ヶ月、その後ロンドンのブリティッシュレイルウエイの護岸工事などを担当していた頃、兄から連絡が入る。
日米の医学交流の仕事をする仲間を探している人がいるというのだ。早速、フィラデルフィアに会いに行き、1995年9月に会社を設立して独立した。最初は五反田のマンションの一室だった。色々事情はあったが、まず始めた仕事は、日本人のドクターが書いた科学論文を海外の研究者により校閲サポートをすることである。
しかし、世間に認知されるまでの3~5年間は苦しかった。まだ、電子メールも認知されていない時代のことである。
しかも、商業ベースの、アメリカ人研究者による論文サポート会社は日本初なのにも関わらず、サービスをサポートしてくれるアメリカ人研究者の先生方は所属や氏名などの個人情報は出さないで欲しいと言う。そこで、苦し紛れに「在米アメリカ人専門家による英語チェック訂正サービス」とした。
実にわかりにくく、説得力に欠けるキャッチフレーズであった。でもそれが何でも試してみたいという好奇心旺盛な研究者たちの心に火をつけた。
創業二年目には、科学論文の日英翻訳において海外で活躍していた日本人研究者の先生方に、「論文の日英翻訳者」として登録していただけるよう、毛筆で3枚にもなる手紙を何百通も書いて直訴した。1999年には、事務所を横浜に移転し、創業五年目には、翻訳部門を分離独立した。同時に、学会に企業展示して宣伝に努めた。
すると、5年目を過ぎた頃から少しずつ口コミが広がっていき、売上が2倍になった。
その後、多言語翻訳部門、ナイウェイ翻訳サービスをスタート、現在ではマーケティング調査の多言語翻訳等、40か国語以上の言語を取り扱う翻訳部門に成長させている。そして2001年には神奈川県中小企業家同友会に入会した。
しかしその頃から、競合他社の追い上げ、多言語翻訳部門の競争激化が始まる。また論文部門はインドの業者が半値八掛けで追いかけてきた。
そんな中、売上にも陰りが見え始める。そこで、更に次々と、様々な事業展開を開始することになる。中国でデザインをする印刷事業、英会話スクール事業など・・・。
だが、本業以外はどれもうまくいかなかった。中でも、2005年に始めた英会話スクールは、評判も良く、生徒もたくさん集まったが、リーマンショックで派遣切りが始まると、生徒が激減していった。やむなく、2014年に英会話スクール事業から撤退した。
しかし、逆境に強いのが伊藤氏である。チャレンジ精神は今も健在である。そこで、始めたのが、2019年4月の改正出入国管理法の施行による外国人実習生の増加を見込んだ、外国人労働者向けの研修動画制作である。
動画では、工場や介護現場での業務を細かく撮影し、外国語で説明文を付けた。業務内容だけでなく、日常生活の過ごし方を指南した英語、ベトナム語のDVDも制作した。中でも、介護の基本が習得できる動画コンテンツ、「動画でOJT介護」は好評だ。英語や中国語、ベトナム語、ミャンマー語、インドネシア語など多様な言語に対応している。伊藤氏は「コロナ禍で出鼻をくじかれてます。」と語るが、エヌ・エイ・アイ株式会社の新たな収益の柱になりつつあるのは明白である。
おおらかな人柄で、「社員には何の隠し事もありません。」と、笑う。だからこそ、社員が一丸となって、会社を支えてくれる。社員からのアイデアも積極的に受け入れている。
子さんは二人。すでに33才と28才で独立しているが、事業継承の予定はないという。
今後は、事業の継続が課題になりそうだ。コロナ禍でインバウンドや国際間の人や経済の動きも縮小し、仕事は減少した。「選択と集中」をテーマに、事務所を半分にして再出発すると、この時だけは真剣な表情になった。
そして、かつては月に3回出かけていた趣味のゴルフも、コロナ禍であまり行かれていないのだと残念がった。
エヌ・エイ・アイ株式会社
所在地:横浜市神奈川区鶴屋町2-21-1 ダイヤビル5階
TEL:045-290-7205
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<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>