今年度、神奈川県中小企業家同友会の副代表理事に新たに就任したのが、総合保険代理業を営む「株式会社ベストパートナー」の代表取締役 加藤睦(かとう まこと)氏。そのまっすぐな人柄に厚い信任を置く人も多い。
今回は、そんな加藤氏の素顔に迫ってみた。
しかし、その人生はいつも順風満帆だったわけではない。
父は陸上自衛官。駐屯地がある横須賀市武山で、1970年(昭和45年)、看護師の母との間の一人息子として生まれた。生後まもなくから母が勤務する病院内の保育園で育てられ、その後、竹山保育園に転園している。
やがて、新設されたばかりの横須賀市立富士見小学校に入学した。
「勉強は大嫌いでしたが、外で遊ぶのが好きで走るのが速く、1~6年までリレーの選手でしたから、運動会が楽しみでした。」と、加藤氏。一人っ子だから、ご両親の入れ込み様も格別だったようで、水泳、ソフトボール、剣道、書道、そろばんなど、多種多様な習い事で週5日は予定が埋まっていたという。
「でも、竹刀で叩かれるのは嫌だから、剣道はすぐにやめました。(笑)一方、水泳は海上自衛隊のプールを使う本格的な教室だったので、平泳ぎの横須賀市大会で一位になったこともあります。実は、その教室からはオリンピック選手も輩出しているのですよ。
また、そろばん教室は、サボって行っていないことが母にばれて叱られたこともありましたが、おかげで珠算3級になり数学が好きになりました。」
3~4年生の頃はガキ大将で、ドッジボールでは命2つ与えられる特別な存在だったのだとか。
しかし、5年生になると目立ちすぎて、クラスの男子から総スカンを食らったこともあるという。
「でも、その時に女子が優しくしてくれたんです。」
愛されキャラなのである。
6年生の時、地域の教育環境の悪さを心配した両親が、環境の良い粟田エリアに家を購入し引っ越した。
だから、入学したのは横須賀市立野比中学校だった。小学校時代に入っていたソフトボールクラブではレフト、4番で部長だったから、最初は野球部に入ろうと考えたが、坊主になるのが嫌で、入部したのはサッカー部だった。
Jリーガーも輩出する地元クラブチームから上がってくるチームメイトもいたため、県大会ベスト16に入る強豪校だったという。
通学には徒歩で20~25分かかった。そのため、足腰が鍛えられただけでなく、テスト期間には一緒に通学していた優秀な同級生に問題を出してもらって歩き、試験を乗り切ったと笑う。
また、粟田に住む友人と、ハイランドに住む友人で構成された6人グループは、通称、“粟ハイ”と呼ばれ、今も仲が良いのだそうだ。
当時はそれぞれの家庭に順番に集まり、麻雀に夢中になっていたらしい。ちょっと早熟な中学生だったようだ。
そのように部活と青春を謳歌していた中学2年生のある日、加藤少年は母から突然100万円を預けられる。
「何に使ってもいい。投資の勉強をしてもいいし、好きなことに使ってもいい。だけど、1年後に同じ金額を返して欲しい。」と、母。
「怖くて、貯金しか出来ませんでした。」と、加藤氏は笑うが、母の思いに今も思いを巡らせる。
そんな母の口癖は「何でもいいから一番になれ。」だった。人がやるからやりたい、というのは認めてもらえなかった。だから、実は小学生の頃からお小遣い制ではなく、申告制だったそうだ。
必要な理由と金額を上申し、認められるとお金がもらえた。もちろん、友達が持っているから、はダメ。
だから、普段は祖父母からもらったお年玉を貯金して少しずつ使っていたと笑う。
母は精神科の看護師だった。
今でこそメンタルの病気は認知され、一般的になってきているが、当時は「隠す病気」だったという。母は時折、息子を職場にも連れて行った。
そこで、どんな人も心を病むことがあるのだということを加藤少年は知った。それが、今も顧客の心理を大切にする原点になっているという。
高校は自転車で通える神奈川県立の新設高校に進学した。一期生だったから、先輩はいなかった。ここでもサッカー部に入部したが、初代部長が突然退部した1年生の冬に部長に就任することになる。
当時の同級生達とは「一期生LINEグループ」として、今も70人ほどとつながりがあるという。
実は、奥様も高校の同級生で、卒業後の同窓会で再会してお付き合いが始まったのだそうだ。
偶然、奥様の親友がサッカー部のマネージャーだったことも、縁に繋がったようである。
高校卒業後は、マーケティングに興味があり、都内の大学の商学部に進学した。そして、他大学がメインのインカレサークル(複数の大学で構成されるサークル)に入部し、夏はテニス、冬はスキーを楽しみ、ダンスパーティなどの企画に夢中になった。ベイサイドマリーナのレストランや氷川丸を貸し切り、企業に協賛をお願いするなど、イベントの企画開催に駆けずり回った。
その傍ら、バーテンダーや、スキー用品のショップ、ラーメン店、引っ越し業者、工場の清掃、リゾートのホテルやペンションなど、多種多様なアルバイトも経験した。中でも、大学在学中四年間続けたのが横浜でのバーテンダーの仕事だった。そこで、接客の基本を学び、社会的地位が高い方々との交流も深めたと話す。それが社会人になったときに役に立ったことは言うまでもない。
そして、3年の終わり頃から、マーケティングのゼミに入り、マーケティングを勉強し始めた。先輩からの指名でゼミ長を任され、当時UCCが発売したコーラについて、マーケティングの見地から研究し、論文を書いた。
1992年、就職したのは、「不二サッシ株式会社」だった。
「一生に一度使うものに携わりたい」と思ってのことだった。
家も、普通は一生に一度の買い物である。その一部となるのがサッシだと考えた。
武蔵小杉に本社があったので、そこで働くことを夢見ていたのだが、配属されたのは住宅チームの千葉営業所だった。
「きれいなオフィスビルで勤務をするつもりだったのですが、鉄鋼団地の倉庫に隣接した事務所でした。社員も5人だけ。隣接した倉庫には高齢の男性社員と事務のパートの女性が働いていました。
でも、そこには全国一位の優秀な営業マンが1人いたんです。でも、その方は2年目には転勤してしまい、わずか入社2年目にして、全国一位の地域を任されることになってしまいました。今でも、その時の眠れないほどのプレッシャーを思い出します。」
フットワークと元気を自分の取り柄と考えた加藤氏は、建築現場や設計事務所などを精力的に回った。誰にでも、何にでも、欠点はある。だから、改善点を聞いて歩いた。
他社製品のどこが良いのか、前任者の改善点はどこなのか?レスポンスが遅いと聞けば、迅速なレスポンスを心がけた。他社のプレゼンがうまいと聞けば、プレゼンを工夫した。
次第に職人さんや協力業者が助けてくれるようになっていった。そして、気がつくと、ついに全国一位の営業成績を達成していたのである。
「『できない』ということは、『助けてもらえる』ということで、決して悪いことではありませんでした。チームで対応していけば良いのですから。」と、加藤氏。
そして、1997年、外資系損害保険会社「AIU保険会社日本支店(現・AIG損害保険株式会社)」に転職した。一人っ子だったので、転勤がない職に就きたいと考えたからだった。
そして、中小企業のパートナーになりたいと思うようになっていた。
「『保険』というと、お付き合いで入るとか、営業がしつこいというマイナスの印象をお持ちの方も多いですが、実は絶対に必要なものです。大企業は倒産しても会社更生法などで手をさしのべられますが、中小企業は違います。だからこそ、中小企業の力になりたい。しかも、自身の独立の道も開けると考えました。私は人が好きで、飛び込み営業やテレアポ(テレフォンアポインター)も苦にはならないですから。」
入社したのは、横浜中央支店だったが、そこは全国3本の指に入る厳しい支店として社内に名を馳せている支店だった。だが、その反面、通常は10人に1人なのに対し、半数が独立する支店でもあった。
ところで、加藤氏は18歳で知り合った奥様と、6年間のお付き合いを経て24歳の時に結婚していた。
転職したのは、長女の妊娠がわかったときだった。当時は新小岩のマンション住まいだったが、初任給が低い外資系保険会社では、そのままの生活を維持するのは困難だった。そこで、小学生の時に母にお小遣いの申告をしていたように、奥様に上申書を書いたという。
「長女が小学校に入るまでには家を建てます。」
そこに、義父が援護射撃をしてくれた。「男がやりたいと言っていることだ。やらせてやれ。」その気持ちがありがたく、裏切れないと思った。そして、当面の間、実家に戻ることになった。
外資系の会社は実力主義だ。教育熱心な上司が加藤氏にあてがったのは、職人の街、鶴見・川崎地区だった。
テレフォンカードをディスカウントショップでたくさん購入し、公園の電話ボックスで電話をしまくった。
時には、住民に不審がられて警察に通報されたこともあるという。それでも、くじけずにテレアポを重ねた結果、町工場の職人たちが力添えしてくれるようになっていった。
やがて、鶴見の沖縄タウンの人々も知人を紹介してくれるまでになった。現在沖縄支店を持っているのは、その時のご縁からであるという。
2002年、32歳の時に独立し、奥様との約束通り自宅を購入した。現在、2人の娘に恵まれている。
加藤氏が独立する際、AIUが独立した社員のために、横浜ランドマークタワーの31階に、集合オフィスを作ってくれた。加藤氏も、まずはそこで1人で仕事を始めたのだが、同じ横須賀出身の先輩が合流してくれた。それが、ベストパートナーの山田泰司専務である。2人で半年間構想を練り、「2人が別れるときは、2人ともこの業界から去ろう」という固い決意の元に共に事業を始めた。
最初の1年間は2人の給料を抑え、週に2~3回居酒屋で将来のことを語り合いながら、1年分の家賃を貯めた。
そして、2005年、満を持して同ビルの19階に独立したオフィスを構えた。実は、この時もAIUがサポートしてくれたという。そして、15周年を迎えたとき、同じフロアのベイブリッジ側に移転し、現在に至る。
「社長がやれないことは何でも振ってくれ。とれないボールは僕がとります!」と言ってくれた山田専務の言葉が、加藤氏を支えてきたと語る。
社内には、コロナ禍に社員のために設置したバーカウンターもあり、社内コミュニケーションの場となっている。
会社は、これまでにM&Aを五回実行し、2016年には沖縄支店を設立した。実は、沖縄支店設立の際には反対する人が多かった。しかし、同友会の仲間からかけられた言葉に背中を押されて、設立に踏み切ったという。沖縄という土地柄、契約にこぎ着けるまで苦戦が続いたが、現地の人を雇うことにより、2年前からは黒字に転じている。
加藤氏が同友会に入会したのは、2004年のこと。最初の2年間は同友会の利用価値がわからず、ほとんど参加していなかったと笑うが、2006年に経営指針作成部会28部会に参加してから、考えが変わった。
経営の指針ができただけでなく、同期ができ、相談できる仲間ができた。
「保険業は相談業。まずはどんな思いで事業をしているのかを聞き、お客様のことをよく知ることが第一歩です。そうしないと、適切な保険が売れないからです。問題解決のために何が出来るのかを一緒に考えます。その上で、必要なら弁護士、銀行、士業の方をご紹介することもあります。お客様から『ありがとう』と言われるのが、一番うれしいです。」と、加藤氏。
まずは全てをカバーできる保険を提案し、予算に応じて、お客様と相談しながら削っていくというのが、ベストパートナーのやり方。お客様に伴走する一番のパートナーでありたいという加藤氏の想いがそこに表れている。だからこそ、AIUのTGA(Top Grade Agency)をほぼ毎年受賞し、生命保険の年間優秀代理店に指定され、さらには、全国でも100店しか取得できないAMAモデルエージェンシーにもなっているのだろう。
将来は、リタイアした社員が働ける一次産業の居場所を作り、農業・漁業をサポートし、地産地消のレストランも作りたいと夢は膨らむ。それも、あと3~4年で事業化したいと、すでに動き出しているようだ。
「頑張る人を応援する会社になりたいのです。そのためには、雇用の維持・助成が必須です。」と、目を輝かせた。
そんな加藤氏の趣味はゴルフ。忙しくても、月に2回は出かけるという。
そして、普段は愛犬・ロイ君(チワワ)との散歩が一番の癒やしとなっているようだ。
株式会社ベストパートナー
本社所在地:横浜市西区みなとみらい2-2-1 横浜ランドマークタワー19階
TEL:045-650-3157
URL:http://www.your-bestpartner.co.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>