南武線鹿島田駅東口にあるビルの最上階ワンフロアを占めるオフィス。
街を一望するガラス張りの会議室で、広告印刷およびWEBデザインを手がける「株式会社東邦プラン」代表取締役の本多 修氏はインタビューに応じてくれた。
神奈川県中小企業家同友会の代表理事に就任して、今年で5年目。企業家としての実力はもとより、その気負いのない穏やかな人柄を慕う人々も多い。
本多氏が生まれた1962年(昭和37年)の日本は、高度成長期まっただ中。工業地帯を間近に控える川崎市幸区鹿島田も活気が満ちあふれていた。母方の一族は全員教員の家系。父はサラリーマンだったが、本多氏が生まれるとすぐに起業し、自宅でプラント工場「本多工業有限会社」を立ち上げた。
高度成長の波に乗り、父の事業は順調に発展していった。自宅は、各部屋にエアコンがあり、合計7台のエアコンが設置されていたほど裕福な家庭だったので、本多氏は2歳年下の妹共に、両親に溺愛されて育ったという。
幼稚園に入園すると、両親が共稼ぎだったため、毎日祖父母の家に帰宅し、母の帰りを待った。当然のように、おじいちゃん子になった。
「両家共に初孫だったので、とても可愛がられて育ちました。だから、人に嫌われると思ったことがないのです。」
どんなに愛されて育ったかがよくわかる。
そして、地元の小学校に入学すると、3年生の時、後に一緒に創業し、常務となる的場英興氏と同じクラスになった。実は、同友会会員の「有限会社ニュー・ファースト」の新井一郎氏も、小学校6年間同じクラスだったそうだ。共に両親が共稼ぎだったため、神社の境内で夕方遅くまで一緒に遊んだと、懐かしそうに語ってくれた。
しかし、小学校5年生の時、父の会社が負債1億6,000万円を抱えて倒産する。当時、父の事業はいたって順調だったのだが、知人の連帯保証人になったことに起因する倒産だった。母が勤務する学校や自宅にまで激しい取り立てが押し寄せ、子供達だけ半年間母方の兄弟の家を転々とする生活になった。しかし、当時友人達にはそのことを内緒にしていたという。
母は父を少しでも助けようと親戚や知人から借金をし、その返済に追われた。そして、父の負債が母子に及ばないようにと、両親は離婚することになる。父は鶴見に家を借りて家を出て行ったが、幸い自宅は母の名義だったため、母と子供達は続けて自宅に住むことができた。
母は教員仲間ではちょっと有名な教員だった。そこで、地元の中学校に入学すると、音楽の先生から目を付けられた
「本多先生のお子さんなら、よくできるのよね?」
そのひと言に反発し、一気に音楽が嫌いになった。だから、音楽の成績だけが悪かった。10段階評価の一だったというから、先生も本多氏も相当頑固だったようだ。それを案じた母がピアノを習わせようとしたが、向かった教室に同級生がいることがわかり、1日でやめてしまう。
そこで、次に母が勧めたのがクラシックギターだった。中学2年生から始め、その後、大学卒業まで続けることになる。
「人と競うのが、基本的に嫌いなのです。勝ち負けのあるものは全て嫌いです。」と、本多氏。だから、体を動かすことは好きなのだが、中学で入部したハンドボール部も1ヶ月で退部しているし、高校で入部したサッカー部も僅か半年でやめている。
高校に進学すると、同級生の紹介で引っ越し屋のアルバイトを始めた。
「このアルバイトは大学時代まで続けました。当時1日働くと日給4,200円をくれたのですが、この日給というのがありがたかった。稼いだお金で250ccのオートバイを買いました。でも、1年弱で自損事故を起こして廃車することになってしまいましたが・・・。」
理系志望だったので、「大きなことができたら面白そうだ」と、大学は土木工学科を選んだ。しかし、実際に進学してみたら、期待していたものとは異なっていて、すぐに興味を失ってしまう。
そこで、サークル活動とアルバイトに明け暮れる生活が始まった。サークルは、ギターアンサンブル部だった。そこで、2年生の時、1学年下で英米文学科だった奥様と出会い、お付き合いが始まることになる。
その頃、先輩の紹介により、印刷会社でアルバイトを始めている。夜間、印刷物に訂正シールを貼る仕事だった。社員の仕事が終業する夜8時に出社し、始業の9時までの間、1人で黙々とシールを貼り続けた。単純作業だったが、仕事をしていくうちに、貼り方や段取りを色々工夫してみるようになる。すると、他の曜日に入っているアルバイトより、5倍の量を貼れるようになった。ある日、それに気がついた社員から、訂正シールを貼らせておくのはもったいないと言われ、指示手配をする側に回ることになる。それが、印刷物を手がける「東邦プラン」のきっかけになっていくとは、当時は思ってもいなかったそうだが、ここで、知識、経験、人脈を手に入れることができたと語る。
しかし、大学在学中に土木工学の勉強への興味が戻ることはなく、1年留年した後、中退した。
その後は、ミキサー車やコンクリートポンプ車の運転士、引っ越し屋などのアルバイトを転々とした。しかし、どれも3ヶ月ぐらいで辞めてしまったのだという。
「どこで働いても、そこにいる年配の方々が、『君みたいな人がここにいてはいけないよ。』と言う。だから、いられなくなって、辞めてしまいました」と、笑う。
すると、見かねた父が「おまえには勤め人が向かないから起業しなさい。」と、自ら会社登記をし、名刺まで作ってくれた。それが、「有限会社東邦プラン」である。
「今日からおまえは社長だ!」と、父。
実は、小学生時代に家を出た父と、大学生になると同居するようになっていた。元々、仲が良かった家族である。負債のせいでばらばらになっていた家族が、また1つになった。
「社長なのだから、自分で事業内容を決めろ。」と父に言われ、1989年(平成元年)、27歳の時に印刷業を始めた。当時、サラリーマンを辞めたばかりだった同級生の的場氏を誘って起業した。しかし、起業したばかりだから仕事がない。そこで、アルバイト先だった印刷会社に出向した。
だが、起業の3年後にバブルがはじける。そして、印刷会社から仕事を切られてしまう。
困ったことに、その頃、本多氏は結婚したばかりだった。しかも、ハネムーンベビーを授かっていた。当然奥様は働けなくなる。すると、家賃も払えない。そこで、仕方なく不動産屋に就職することにした。その間は、独身だった的場氏が電話番をし、会社を継続させてくれた。
しかし、その不動産屋も3ヶ月間で辞めてしまう。
「それでも3ヶ月間で7軒もの物件を売りました。そこで、自分は営業に向いているのだと気付いたのです。でも、同時に、それなら自分の会社で営業した方がいいということにも気付きました。」
当然、不動産会社からは引き留められた。
「しかし、不本意な条件の家もお客様に売らなければいけない不動産業とは異なり、印刷会社は印刷物ができあがると、どなたからもとても喜んで頂けるし、リピートもある。それが、とても嬉しかったのです。」
とは言うものの、当時の東邦プランの売上はわずか8万円だった。その中から、外注費5万円を支払うと、残りは3万円しか残らない。しかも、それを2人で分けたのである。それでも、若いから不安になることはなく、胸いっぱいに希望だけが大きく広がっていた。
しかし、1ヶ月15,000円で妻子は養えない。そこで、昼間は東邦プランで仕事をし、2日に1回は夜間に警備員の仕事をする生活が1年半続いた。全く睡眠をとれない日が1日おきにあったことになる。その生活は、東邦プランでの給料が20万円になったとき、ようやくピリオドを打つことができたという。
当時は、封筒、名刺、伝票などの印刷物がメイン事業だった。それでも、得意の営業力で1年半後には月に500万円、年商6,000万円を売り上げるまでになっていった。
そして、32歳になったとき、運命の出会いがある。製版屋に務めていた福士直巳氏が加わったのだ。2人で夢を語り合う日々が続き、より利益率の高い広告や新聞折り込みの仕事を手がけるようになった。
「でも、当初は福士さんに『給料は僕たちと同じ20万円しか出せないよ。』と言ったのです。それでもいいと言ってくれました。その代わり、売上が上がったときには給料を上げるという約束をしました。すると、半年後、賞与を700万円欲しいと言われたのです。そのぐらいは十分売り上げたはずだと・・・。」
本多氏は迷わず支払った。
「それで、信用してくれて、共に働いていこうと思ってくれたようです。今は当社の専務になってくれています。」
その頃は、まだ社員3人と事務員だけの会社だった。
会社はバブル崩壊後も着実に成長を続け、35歳の時に自宅兼オフィスを新築した。そして、1999年(平成11年)、37歳の時に「株式会社東邦プラン」に組織変更をする。
その後も会社は拡大し続け、本社の他に制作部と営業部と営業所を2カ所増やし、社員は45名となって、年商は10億円に達した。そこで、2005年(平成17年)に営業所を統合することにし、鹿島田駅東口に県の再開発でできたばかりの「ルリエ新川崎」最上階をワンフロア貸し切り、移転した。
ところが、2008年(平成20年)にリーマンショックが会社を襲う。30社もの取引先から不渡りを受け、負債額は1億2,500万円にまで膨らんだ。売上は半減し、途方に暮れた。
そんなとき、神奈川県中小企業家同友会と出会う。すぐに入会し、経営指針作成部会第34部会を受講した。結果として、それが大きな転機となった。
自身の過去の記憶を遡り、自身を深く突き詰めていく作業を重ねるうちに、気づきが生まれ、会社の方向性が定まっていった。しっかりと自己確立ができ、数字しか追ってこなかった会社に、経営理念や経営方針ができたことで、だんだんと社員全員が同じ方向を向くことができるようになっていった。
こうして、会社はまた順調に発展し始めたのだ。しっかりとした軸ができあがった会社は、東日本大震災のときにも揺らぐことはなかったという。実は、紙業者の倉庫が東北にあったため業界に紙不足が生じたが、取引業者が優先的に東邦プランに紙を回してくれるなどして助けてくれて、大きな影響は受けなかったという。それも、それまでの仕事の積み重ねの賜物と言って良いだろう。
だが、ここ数年のコロナ禍の影響はやはり大きかったようだ。新聞折り込みチラシが大きな売上の柱となっていた東邦プランでは、売上が半減してしまったのである。制作部門は休業を余儀なくされた。しかし、営業部門はテレアポやZoomでの営業を継続した。そして、業務内容の軸足を、チラシ制作・新聞折り込みから会社案内やWEB制作に移行していった。いまもまだ、制作部門は週休3日だというが、コロナ禍でも営業を継続し、蒔いた種が少しずつ芽を出し始めているという。売上は徐々に戻り始めている。
「しかも、コロナ禍で大企業の採用が控えられたので、良い人材を新卒採用することができました。」と、本多氏。プラス面もあるようだ。「実は、コロナ禍で若い子達が本当によく頑張ってくれました。」と、目を細める。今夏のインターンシップには80名もの学生を受け入れた。以前は、入社後数年すると「やりたいことが見つかりました。」と言って辞めてしまう社員も多かったそうだが、最近は戻ってくる元社員もいるという。
まだコロナ禍以前のような社内イベントはできていないと言うが、今年は社員旅行にも行かれればいいなと目を輝かせた。現在も月2回は社長塾を開催し、社員とのオフサイトミーティングをして、情報収集とコミュニケーションを図ることを忘れない。このことが社員同士の関係性の向上にも大いに役立っていることは言うまでもない。
人と競うのが嫌いな本多氏だが、趣味はスノーボードである。実は、ひとり娘はオリンピック強化選手にも選出されたプロのスノーボーダーなのだ。
「娘が小学校1年生の時に初めてスキーに連れていったのですが、娘の希望で、それ以降毎週末スキーに連れて行っていました。2年生の時にスノーボードに転向したのですが、その際に私たち夫婦もスノーボードを始めています。夏は、当時千葉にあった屋内スキー場の『ららぽーとスキードームザウス』に、冬は新潟の『舞子スノーリゾート』にと、1年中毎週末はスキー場に通っていました。」
実は、奥様もスノーボード一級の腕前だそう。
「娘はうちの座敷童です。彼女が生まれてから、いいことばかり。」と、顔をほころばせた。
最近の本多氏は、数年前に始めたサップに夢中で、夏はサップ、冬はスノーボードと、休日を満喫している。また、コロナ禍になって料理も始めたという。毎日、家族のために腕を振るう、愛妻家でもあるのだ。
株式会社東邦プラン
本社所在地:神奈川県川崎市幸区新越塚201番地 ルリエ新川崎7F
TEL:044-549-0772
URL:http://tohoplan.co.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>