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神奈川県中小企業家同友会
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ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏

変化を恐れず、大学や企業の研究開発部門を
サポートする新分野の事業を開拓する

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏

日本の技術力の低下が取りざたされる昨今、日本の技術の研究・開発を支える中小企業がある。それが、「ニイガタ株式会社」だ。大学や企業の研究開発機関からの要望に寄り添い、実験装置や理化学機器などの提案・設計を担う、これまでにない新分野の事業を展開している。代表取締役社長の渡辺学氏は、2017年より神奈川同友会副代表理事を務めている。しかし、その柔和な笑顔と人を惹き込む会話の裏側には、日ごろは語ることがない色々な人生ドラマがあったようだ。

幼稚園の砂場に毎日落とし穴を作って
先生が落ちるのを楽しみにしていた!

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏
三和彫刻所の社長夫人から孫のように可愛がられていた

1965年8月、母の実家である山形県で生まれた。いわゆる里帰り出産である。当時、両親は東京都大田区下丸子のアパート住まい。父は、高校卒業後に故郷・新潟にて当時の丸通(現日通)の経理部門にて働いていたが、親戚の紹介で大田区の町工場、有限会社三和彫刻所に転職していた。そして、渡辺氏が1歳の時、武蔵新田の文化アパートに引っ越した。

「泣き声がうるさいと近所から苦情が来て、引っ越しをせざるを得なかったと聞いています。」とても元気な赤ちゃんだったようだ。

しかし、当時の日本はまだ国全体が貧しかった時代である。家には風呂がなく、幼少のころから近所の3歳年上のお兄さんと二人で銭湯に行くのが日課だったという。

「時々帰りにハムカツを買ってくれるんです。それを食べながら帰るのが楽しみでした。」

すでに、3歳下の弟が生まれていたため、母は育児で忙しかったが、渡辺氏は近所の小学生のお姉さんたちの人気者で、ままごとに誘われることが多かったと笑う。一方、幼稚園に入ると、毎日幼稚園バスが出発する時間まで園庭の砂場に穴を掘って遊んだ。

「落とし穴です。毎朝、先生が落ちていないか確認するのを楽しみに登園していました。今考えると茶碗ぐらいの穴だったと思うのですが・・・」

結構いたずら好きだったのである。

自宅に社長夫人がハイヤーでお迎えに

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏
社長夫人にデパートで買ってもらった洋服を着て、ハイポーズ。

1971年、渡辺氏が六歳の時、父が工業彫刻の会社を創業し、1979年、有限会社新潟彫刻を設立した。時は高度成長期。世の中が活気に満ちていたころである。渡辺家は日吉の矢上川土手沿いに引っ越した。町工場が点在し、イチジク畑や沼がある自然豊かな地域だった。都会っ子だった渡辺氏は、当初何をして遊んだらいいのかわからなかったという。自宅は1階が工場で、2階が住居だった。だから、工場で遊ぶことも多かった。

父が創業しても、元の勤務先である有限会社三和彫刻所は、資本関係こそないものの仕事をいただく親会社的な存在だった。社長夫妻にはお子さんがいなかったため、渡辺氏は社長夫人から孫のように可愛がられたという。月に一度は、自宅前にハイヤーで迎えに来て、踊りやお茶のお稽古に伴われた。また、社員旅行の時にも、自宅前に黒塗りのハイヤーで迎えに来てくれた。父と他の社員の方々は営業車で旅先に向かったのに、である。また、社長夫人から、蒲田のデパートで服やおもちゃを買ってもらうこともしばしばあったという。社長夫人から溺愛されていたのだ。

入学したのは日吉台小学校だった。しかし、2年生になると分校して地元に矢上小学校ができた。そして、渡辺少年は次第に地域に溶け込んでいった。敵味方に分かれて石を投げあう「石投げ」や「泥警」をして、友人たちと遊んだ。時には、2階から屋根伝いに逃げて、他家の屋根を壊して叱られたこともあったという。「やんちゃだったのですね?」と問いかけると、「いえ、いたずら好きだったのです。」と、訂正された。小学校時代の友人とも、いまだにお酒を組みかわすほど仲が良いそうだ。小学校時代は学級委員に選ばれることも多く、児童会の副会長にも選任されている。いたずら好きながら、人望もあったようである。

悩み多き高校時代を救ったのは夏目漱石の本

一方、小学校2年生から野球に目覚め、自己練習を始めるようになる。

「プロ野球選手になりたかったのです。」

当時は、「巨人・大鵬・卵焼き」と言われ、巨人軍の長嶋選手や王選手の人気が絶大だった時代である。しかし、渡辺少年が憧れたのは、巨人の淡口憲治選手だった。4年生からはリトルリーグに入り、そして、中学に入学すると、迷わず野球部に入部した。だが、小柄だった渡辺少年は、体力や実力の差を思い知ることとなり、プロ野球選手への夢はあっけなく潰えた。

しかし、一方で器械体操が得意だった。大学生になると、柔道のセンスを買われて顧問の先生から入部を請われたこともあるという。

「子供のころから、やりたいことと得意なことが一致しないのです。得意なことはすぐにできてしまうから、飽きてしまう。得意ではないけれど好きなことの方が、一生懸命続けられるような気がします」と語る。

県立高校に入学すると、友人に誘われてラグビー部に入部した。しかし、希望とは異なるポジションとなり、熱意を失っていく。そして、そのころから、生きる意味に悩むようになった。そこで、いろいろなジャンルの本を片っ端から読んでいった。そして、出会ったのが夏目漱石の三部作「三四郎」「それから」「門」である。すると、悩んでいた心がすっきりしていった。

やがて、渡辺氏が次に夢見たのは宇宙飛行士だった。しかし、たやすくなれる仕事ではない。そこで、東海大学海洋科学科に進学を決め、沼津・清水で学生時代を過ごすことになる。

経験したアルバイトは50種類以上

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏
静岡で過ごした大学時代。愛車と共に。

大学で出会ったのが、夏目教授である。研究室に遊びに行くと、机にはアインシュタインの肖像画が飾られ、引き出しの中にはウイスキーのボトルがしまわれていた。そして、ここで研究されていたのは波のメカニズムだった。oceanic whitecapsと呼ばれる白波の研究である。白波の立ち方により地形がわかり、軍事上陸作戦などにも利用されていた研究だという。

親元を離れ、静岡県で暮らしていた渡辺氏は、研究に打ち込むとともに、もちろん青春を謳歌することも忘れなかった。いろいろな職種のアルバイトを経験した。

実は、アルバイトは中学生のころからしていたのだという。中学時代は新聞配達だったが、その後はケーキ屋、こんにゃくメーカーの配送、コンサートバイトの仕切り、とび職、不動産、家庭教師、居酒屋、外国人パブのボーイ、外国人スナックの店長、ガソリンスタンド、ビルメンテナンスの掃除など、なんと50~60種類ものアルバイトを経験している。中でも、スキーの添乗員・指導員は、両親が雪国育ちだっただけにお気に入りのアルバイトだったようだ。

家業を継ぐ決心をした途端に
バブルがはじけて倒産の危機に

その後、就職を考える時期になっても、実家を継ぐ気は少しもなかったという。

「サラリーマンが向いていると思っていたし、父から継いでほしいという話も特にありませんでした。」

当時、家業は父と職人1人、いとこの3名で、連日徹夜作業が続いていた。一方で、渡辺氏が就職したのは、ロサンゼルスや香港、ブリュッセルなどに海外支店を持つ、静岡の中堅広告代理店だった。大学時代にアメリカ西海岸に旅行して以来、アメリカに対する憧れが膨らみ、ロサンゼルスで働いてみたいと選んだ職場だった。

配置されたのは、企画営業だった。仕事もプライベートも順風満帆だったのだが、やがて、本社から神奈川支店に転勤になる。すると、当然のことながら実家から通勤するようになった。
当時はバブル景気真っただ中である。父の会社も仕事はありすぎるほどあったが、人手が足りず、毎日徹夜をしていた。それを横目で見ながら通勤していたが、やがて次第に長男である自分が手伝わなくてはいけないのではないかという気持ちが膨らんでいった。1992年、27歳の時に家業を継ぐ決意をする。

父は喜んだ。しかし、職人として入社してみると、バブル期崩壊とともに、家業は厳しさを増していた。借入金も多く、しかも、工業彫刻業は、次第に印刷にとって代わられ始めていた。その上、製造業の機械化が推進され始めていたが、新潟彫刻はまだ職人頼みの作業が続いていた。
その結果、1999年に会社は一時倒産の危機を迎える。再起を果たそうと、有限会社から株式会社に組織変更し、社名を「ニイガタ株式会社」と変えて再出発を図った。

隣接異業種展開を始め、一人で設計も始めた

実は、1990年代後半には樹脂加工を開始し、顧客から受け取った図面を製品化する業務の受注を始めていた。隣接異業種への事業展開である。しかし、設計技術を持っていなかったため、下請け、孫請けの立場に甘んじるしかなく、それ以上の事業展開ができずにいた。

「これからの会社は、設計技術を持たなければだめだ。」

渡辺氏は自らデザインの学校に通い、2000年ごろから設計業務を一人で手掛け始める。当然、職人肌である父との軋轢も生まれた。それでも、渡辺氏は自ら設計、営業、事務作業をこなし、2005年、社長に就任。
すると、日々はさらに多忙を極め、自分でワゴン車を運転して社員旅行に行ったり、時には会社に子供を連れてきて仕事をしたりする日もあるほどだった。夢中で仕事をした。しかし、1人で何もかも行う体制が、会社の成長に限界を作っていることに、当時は気づく余裕すらなかった。

同友会との出会いが会社を変え、
研究者のサポーターとしての新事業を展開

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏

設計業務を開始すると、ある日、大学の研究者から相談を持ち掛けられた。それをきっかけに、大学の研究室や企業の研究機関などを対象にしたモノづくりを開始した。大学時代に海洋物理学を専攻していた渡辺氏は理系の知識があったのだが、研究分野が異なると、専門用語も多く、理解が難しい話が多い。それでも、根気よく聞き取りを重ね、研究者の要望に寄り添い、一つ一つ案件を重ねるうちに、ニイガタ独自の立ち位置が次第に確立されていった。

さらに、2007年に神奈川県中小企業家同友会に入会したことが、ニイガタにとって大きな転機となった。当時、経営指針がなかったニイガタは、社員に会社の方向性を示すことができずにいた。当然ながら、優秀な人材確保が難しかったという。同友会に入会すると、さっそく翌年には経営指針作成部会(第33部会)を受講し、経営指針や経営理念を完成して、社の方針に掲げた。すると、社の方針を理解した人材が集まり始め、次第に先端的な技術を扱う研究者を支援する企業として、新たな分野を築くようになっていく。2010年ごろからは、他の社員にも設計業務を学んでもらい、研究者の支援事業が会社の柱となり始めた。

2013年、産学連携が盛んな関西地域の営業拠点として、京都市下京区の京都リサーチパーク内に営業拠点を開所した。これは、2019年に分社化し、現在は系列新会社「ワオデザイン株式会社」となっている。

研究者をサポートする
「研究のプラットフォーム」になりたい

社員は20名ほどに増えていた。しかし、渡辺氏の忙しさは拍車をかけるようになっていた。すべての案件に社長が関与していたからである。自分でやらないと気が済まなかった。でも、それでは立ち行かなくなってくることもわかっていた。

そこで、大手企業およびベンチャーにて経営企画および経営者の経験がある人材を迎え、社内改革に取り組んだ。渡辺氏に集中していた各種決定権の見直しがなされ、一定金額以下の設備投資などの決定権がほかの役職に譲渡された。すると、社員に自主性が芽生え、一人一人が生き生きと働き出したのである。

その後、次々に事業拡大が始まった。2018年、大手自動車メーカーへの支援強化のため、豊田営業所を開所した。さらに、2020年には三島研究所、次いで、東海R&Dソリューションセンター、川崎研究所と、次々に研究施設を開設。現在売上高シェアは大学関係が2割、民間企業などの研究機関が8割と、流体力学分野での知名度は飛躍的に向上している。
研究者とのネットワークも豊富で、研究者同士をつなげたり、技術を持つ中小の製造業者への橋渡しをしたりと、「研究のプラットフォーム」としての地位を確立すべく事業展開に加速をかけている。

ニイガタ株式会社 代表取締役 渡辺 学氏
趣味は石州流茶道。初釜の茶席にて。

「都市銀行の当座貸し付け停止にあい、もう駄目だと思ったこともありました。それでも、融資を申し出てくれる金融機関に出会い、救われてきました。運に恵まれているのかもしれません。」と、渡辺氏。そして、「ちょっとした違和感を大切にしています。居心地がよくなってしまったら、次のステージに移行するようにしています。」と、語る。それが、渡辺氏流のステップアップの秘訣なのかもしれない。

事業は順調に発展してきているが、その一方で、渡辺氏は四年後に社長を退き、会長になる予定だと語る。3人のお子さんに恵まれているが、ご長男の事業承継は考えていないそうだ。できれば社員から選出したいのだと語った。その準備も着々と進んでいるようだ。

そんな渡辺氏の趣味は、石州流の茶道やサップ、スキーと、幅広い。中でも、茶道は玉石酔山先生を師と仰ぎ、10年間稽古を重ねてきた。茶名は「酔学」にして欲しいとすでにお願いしてあるのだそうだ。
お酒が好きな渡辺氏にぴったりの茶名である。
朝夕の体の鍛錬も日課にしていて、「健康オタクなんです。」と、笑った。

企業情報

ニイガタ株式会社
本社所在地:神奈川県横浜市鶴見区駒岡2-12-5
TEL:045-580-3181
URL:https://ni-gata.co.jp/

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>