雉子亭 豊栄荘があるのは、箱根温泉郷でも一番古い温泉地。箱根の玄関口・箱根湯本駅から橋を渡り、昔ながらの細い街道を登っていくと、木立の中の緑深い旅館街に行き着く。
株式会社豊栄荘 代表取締役の原健一郎氏は、雉子亭 豊栄荘の三代目。2023年春、神奈川県中小企業家同友会の小田原支部長に就任した。
1974年(昭和49年)東京都世田谷区で、二人兄妹の長男として生まれた。父が日本貿易振興機構(ジェトロ)に勤めていたため、父の海外赴任に伴い、3歳の時にエルサルバトルに、5~6歳の時にはパナマで暮らした。そのため、帰国したばかりの時には、友人にいきなり挨拶のキスをして驚かれたと笑う。
帰国後の住まいは、渋谷区幡ヶ谷だった。小学生になり、水泳、剣道、習字など、いろいろな習い事に手を出したものの、どれも長続きはしなかったという。「飽きっぽいんですかね~。」とちょっと困ったようにつぶやいた。ただ唯一、水泳はクリアしていくのが面白く、2kmぐらい泳げるようになったのだそうだ。
当時、母方の祖父が豊栄荘を経営していた。そのため、夏休みや親族の集まりなど、折に触れて豊栄荘を訪れていた。豊栄荘は、土木の会社を経営していた祖父が、67年前に6,000坪の土地を購入して始めた、雉子料理が堪能できる稀少な旅館である。築400年を超える離れの雉子亭は、昭和38年に飛騨から移築した合掌造りだ。
小学校3年の時、父の仕事の都合で九州の小倉に引っ越した。人情が厚く、人々が温かい。すぐに馴染み、地元の子らと「貝割り」(貝を重ねて地面に置き、上から踏みつけて割れなかった方が勝ちという遊び)に興じた。
また、そのころ同級生に誘われて、中学受験を志し始めている。優秀な友達に対する競争心もあったと振り返る。案外、負けず嫌いなのだ。
しかし、小学校卒業も間近となって、またしても父が転勤となり、都内に戻る。入学したのは、進学校として名高い男子校、駒場東邦中学校・高等学校だった。クラブ活動は、入っては止めを繰り返した。自分探しの月日が過ぎていった。
豊栄荘を経営していた祖父が亡くなったのは、原氏が中学生の時のことだった。その後は、祖母が旅館の経営を引き継ぎ、支配人を雇い運営を続けていた。
一方で、原氏は、一浪して横浜国立大学工学部建設学科建築学コースに入学した。
大学生になると、ラクロスに夢中になった。
「経験者がいないスポーツなので、みなスタートラインが同じなのが魅力でした。」と、原氏。その後、大学院修士課程に進み、建築計画学科で高齢者施設の設計に関する研究を進めた。
その研究が現在の旅館経営に大いに役立っていることは言うまでもない。どのようにどこに付加価値を加えればいいのか、またその際にかかるコストはいくらぐらいなのか。見通しを立てた上で取り組むことができるのが、大きな利点となっている。
その後は、資格を取得して、高齢者介護と在宅介護の仕事を一年ほど経験するが、その頃、祖母から豊栄荘を継がないかと打診される。
迷っていたときに、図書館で出会ったのが、「バリアフリーの旅を創る(高萩徳宗著・実業之日本社刊)」という本だった。衝撃を受け、迷いが吹き飛んだ。そこには、旅は最高の心のリハビリで、人と人の心のバリアが取り除ければ、障害があっても旅が楽しめる環境に近づくと書かれていた。
当時、人生に希望が持てずに自分はダメだと言って衰えていく高齢者をたくさん見てきた原氏は、「心のバリアフリーなら、螺旋階段がある豊栄荘でも高齢者の心を豊かにする旅のお手伝いができそうだ!」と考えたという。これが事業承継を決意した瞬間だった。原氏が二八歳のときのことである。
祖母はたいそう喜んだ。2002年に豊栄荘に入社し、取締役に就任した。
ところが、長年支配人任せの運営になっていた旅館は、客離れが進んでいた。原氏の仕事は、社員の愚痴を聞くことから始まった。
すでに借金も重ねており、旅館経営のことをじっくり勉強してから動くという余裕はすでになかった。
まず、サービス面と建築面の両面で自分が良いと思うことを強引に進めていった。しかし、その結果、従業員の離職が相次いだ。採用しては退職を繰り返した。
その後、2008年、祖母が亡くなると、いよいよ代表取締役に就任した。
同時に神奈川県中小企業家同友会に入会し、すぐに経営指針第33部会を受講して経営理念を作った。
すると、経営者としての自分の考え方が従業員ファーストに変わっていくにつれ、少しずつ離職率も低下していった。
また、部屋から下駄をはいて外に出ることができるテラスを作り、自然を楽しめるシーンを創出したりと、建築学の知識を活用して、お客様にお寛ぎいただけるよう様々な工夫も重ねていった。
そして、2013年、三九歳の時、知人の紹介で湯布院の旅館で働いていた妻と出会い、結婚。現在は、小学校2年生と3歳の2人の女の子の父でもある。
「今は子供が小さいので妻は旅館に来る機会が減っていますが、社員の話をよく聞いてくれます。」と、目を細める。
しかし、2020年から始まったコロナ禍が旅館を襲う。元々お客様の半数以上が欧米を主とする海外からのお客様だった。
「特別な宣伝はしていませんが、ご宿泊いただいた方の紹介で、口コミでご予約くださる海外のお客様が多いです。」と、原氏。取材に訪れた日も、スタッフが外国からのお客様の対応に追われていた。そのスマートで温かな対応に、ついつい見とれてしまった。
旅館の窓から見える風景は、緑豊かな山並みばかり。しかし、豊かな自然と日本旅館の凛とした佇まい、ゆったりと流れる時間を楽しみに訪れる方が後を絶たない。それは、日本人が忘れてしまった、日本の良さがここにあるからなのかもしれない。
「大切にしているのは、『心のふるさと』です。」と、原氏。かつて訪れた、「世界一幸せな国」と呼ばれるブータンを手本にしているという。
「自然と共生し、人々が誇りを持ち、他人にやさしい。昔の日本のような空気感が流れています。」
しかし、コロナ禍には欧米からのお客様がストップした。国内需要ももちろん激減した。そこで、この期間は会社軸と社員軸をすり合わせる時間に充てることにした。社員が自発的に作った「豊栄荘会」が、社員と会社が意見を交わす場となった。現在、社員主導で、集められた様々な提案をもとにビジョンマップを制作中だ。
また、自然との共存を考え、2018年より木材チップボイラーも導入している。温泉や部屋のお湯を温めていた重油を、間伐材から作ったチップに置き換え、環境への負荷を削減している。
自然は、豊栄荘にとって、旅館としての豊かな財産でもある。清流を聞きながら入れる露天風呂もあり、ここにはゆったりした贅沢な時間が流れている。
株式会社豊栄荘
本社所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本茶屋227
TEL:0460-85-5763
URL:https://www.hoeiso.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>