「社長と会って、入社を決めました。」と語る社員がいる。温和な人柄がにじみ出る笑顔が印象的ながら、自社事業のことになると熱く語りだす。そんな「岡村建興株式会社」の代表取締役社長 岡村清孝氏にお話を伺った。
昭和36年(1961年)7月、現在本社がある川崎市市電通沿いの家で生まれた。父は、昭和10年に祖父が創業した残土の運送などを業務とする「岡村組」の二代目。
1階が事務所で2階が自宅だった。だから、「5時を過ぎたら下に降りていいよ。」と言われて、幼児期を過ごした。
当時は、高度成長期真っただ中。川崎は京浜工業地帯にあり、スモッグの影響もあったのか、岡村氏が3歳の時、両親は鶴見の閑静な住宅街・岸谷に一戸建てを建て、引っ越した。
「祖母は盆栽が趣味だったのですが、『空気が違うから川崎とは育ち方が違うよ。』とよく言っていました。」
入園したのは、アントニオ猪木の生家の跡地にできた幼稚園だった。
「当時、人気の幼稚園で、入園希望者が多かったそうです。1階が幼稚園で、2階がアパートという変わった形態でしたが、この時期のことは芋ほりが楽しかったことしか思い出せないんです。」と、笑う。
小学校は庭続きの伯母の家を抜け、その裏の家を通り抜けると、1分ほどで登校できた。正規のルートだと徒歩5~6分というから、かなりの近道である。ある日通学路で工事が始まると、見ていた学友がみんなそこを通るようになってしまい、学校で問題になってしまったそうだ。
父は、浅野高校時代に左腕で活躍した野球選手だった。そこで、岡村少年がスポーツ好きになるようにと、自宅の庭に鉄棒やボックス型のブランコを置いた。
岡村氏が小学校低学年のころ、高い鉄棒に飛びつけるようになるという約束を父と交わしたが、その約束を果たすことができず、父から夕食抜きを言いつけられたことがあったという。「巨人の星」の星一徹のような父だと思ったが、「大人になってから母に聞いたのですが、その日は父も夕食を口にしなかったそうです。なんだ、いいオヤジだったんじゃないかと思いました。」
それでも、小学校4年生から始めた剣道では頭角を現し、区大会優勝を果たしたというから、父の運動神経の良さはしっかり遺伝していた。しかし、その後、心臓弁膜症になりかかり、ドクターストップがかかって、激しい運動は諦めることになった。
その後、いとこが慶応中等部に通っていたこともあり、中学受験をして聖光学院に進学した。入部したのは地学部だった。2年次から洞窟班に入り、鍾乳洞巡りに夢中になる。
当時、地学専門の先生が顧問となったこともあり、本格的な洞窟探検が始まっていた。高校生ながら、方位計と巻き尺を使い、洞窟の地図を作製するのである。当時一般公開をしていなかった岩手県の氷渡洞(すがわたりどう)にも、町の許可をとり、探検に入った。
「奥に地底湖がありました。」
洞窟探検は受験準備が始まる高校2年生まで続いたという。
一方で高校2年生の時にはバンドを組んで音楽活動もしていた。ハードロック系のバンドでボーカルをしていたというから驚く。受験勉強の傍ら、アリスのコピーバンドを組み、ライブ演奏もした。
それでも、受験勉強は怠りなく行い、現役で早稲田大学商学部に入学した。この頃は、頭の隅に「将来家業を継ぐかも」という意識はあったものの、まだ継ぐ気は少しもなかったという。
大学では、マーケティングを専攻した。「デパートのエスカレーターはどうして出口側を向いていないのか」とか、「スーパーマーケットの二段目の棚にはどんな商品が置かれているのか」など、モノを売るための仕組みを学ぶことは面白かった。
そして、入部したのが「古美術研究会」である。
「文化部ですが、中身は体育会系でした。寺社仏閣を見学して歩くのですが、先輩から『何を予習してきた?なんだ、古事記も読んでこなかったのか?』などと言われ、入部したての頃はたいそう驚きました。仏像は、時代によって材質や表現技法が異なるなど、わかってくるととても楽しかったです。」と、語る。
別大学で同様のサークル活動をしていた「タイジ株式会社」の堀江裕明社長とは、このころに出会い、今も共に同友会で学び合う仲である。
「大学の勉強より、夢中になって学んでいました。」
仏像や寺社の建築の話になると、今も話が熱を帯びてくる。
大学卒業後、就職したのは大手広告代理店「博報堂」だった。父に相談すると、「どうせやるなら役員を目指せ。」と、励まされたというが、実際は「当時好きだったアイドルの早見優に会えるかもしれない」というミーハーな動機もあったと笑う。
就職活動は、放送会社や広告代理店などのマスコミ系を中心に展開したというが、本命は大学の先輩がいる博報堂だった。
「本気度は、やはり相手に通じるものですね。」
内定をもらったのは、博報堂だけだった。
実は大学4年生の夏休みに腎臓を悪くして検査入院をしたため、就職活動は同級生よりだいぶ遅れてのことだった。だから、9月末日にはまだ内定が取れていなかったため、10月解禁のマスコミ系に絞って就職活動せざるを得なかったという、やむを得ない事情もあったという。
赴任先は、大阪支社だった。本社とは異なり、中堅規模だったため、仕事の一部分だけではなく一通りすべての仕事に携わることができた。それが面白く、瞬く間に仕事にのめりこんでいった。しかし、5年半が過ぎたころ、やり切った気分になり、父の想いを汲んで家業を継ごうと気持ちが傾いていった。
実は、大阪支社の同じチームにアルバイトで来ていたのが、現在の奥様だという。同期の女性の紹介で仲良くなり、共に古美術愛好会に参加する中でお付き合いが深まっていったという。
「家業を継ぐことを条件に、父に結婚を許してもらいました」と、岡村氏。12月に岡村建興に入社し、翌年2月に結婚式を挙げた。
岡村建興は、昭和39年(1964年)に横浜工場を建設してコンクリート二次製品の製造を開始し、昭和42年(1967年)に「株式会社岡村組」から「岡村建興株式会社」に組織変更した。そして、昭和49年(1974年)に、埼玉県に本庄工場(住宅部)を建設し、建設省(当時)の認定を受けて大成建設の指定工場になっている。
現在、岡村建興の業務内容は、土木工事とコンクリート製品製造だ。土木工事に必要な材料を自社製造できるところが強みである。見積もり額を低くして競争力を高めることができるだけでなく、工期も短縮できることから、メリットは絶大だ。
岡村氏は、28歳の時(1989年)に岡村建興に入社したのだが、当初は週3日社長の右腕だった常務のカバン持ちをし、週2日は総務部で10歳年上のトレーナーから仕事を教わった。
「そろそろ青図(経営計画)は書けたかね?」と常務に尋ねられ、返答に窮したことを懐かしそうに語ってくれた。
当時は「大成建設」の仕事を多く受注していた。しかし、ある時、通産省(当時)が工業生産住宅等品質管理優良工場等認定の制度をつくったことから、その認定を工場部門で取得しなければならなくなり、岡村氏が工場に通って企画書を作成することになった。そのため、工場内の色々な作業を実際に経験することになり、とても大変だったが、そのことが今も工場運営に役立っているという。
平成3年(1991年)、本庄工場は無事に通産省品質管理優良認定工場となった。
現在、社内は「工事部」「機工部」「製品部」「住宅部」の4部門で構成されている。コロナ禍のリモート会議がきっかけとなり、今もリモートでの四部門会議が継続され、部門間の有機的な結びつきが強くなり、情報共有が進むようになったと喜ぶ。
一方で、7~8年前にコンクリート製建住宅部材の受注量が半減した。そこで、「戻りコン」という余剰コンクリートをリサイクルして活用する低炭素型のコンクリートの開発や、防草ブロックの製造など、新規事業にも積極的に取り組んでいる。低炭素型コンクリートは、川崎市のESGファイナンスモデル事業に認定されるなど、高い評価を受けている。
そんな岡村氏のリフレッシュ法は、大学時代から継続している寺社仏閣めぐり。平成より、御朱印も集めるようになったそう。
さらに加えて、2年前から近代建築巡りも始めている。きっかけは夕暮れの開港記念館の写真を撮影したのが始まりだという。建築物の写真にエッセイ風の文章を添えてFacebookに投稿している。すでに、横浜の建築は54カ所、今は東京編を投稿中である。
今夏は、ひとり娘が歯科医となって独立したのを機に家族3人でソウルに旅行をしたのだが、奥様とお嬢様が気を遣ってくれて、ソウルの近代建築物巡りを旅程に加えてくれたのだと目を細めた。
「業界の会合があるときに、30分ほど早く出発して、3つぐらいの建物を回って撮影しています。」と、岡村氏。広告会社時代の友人が本にすることを勧めるほど充実した内容だ。今後の投稿にもぜひ注目したい。
岡村建興株式会社
本社所在地:神奈川県川崎市川崎区鋼管通4-5-3
TEL:044-344-5441
URL:https://okamurakenkoh.jp
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>