この人ほど多趣味の人をあまり知らない。クラシックギター、チューバ、フラメンコギター、ピアノ、ロードバイク、ディンギー、キャンプ、そしてシトロエン2CV。ものづくりと音楽が好きで、興味を持つとすぐに熱中してしまうのだと笑う。今回は、精密板金加工「株式会社川崎製作所」代表取締役社長の川崎好仁氏にお話を伺った。
1974年(昭和49年)生まれの49才。
母の実家がある鳥取県で長男として誕生し、祖父が起業した神奈川県大和市鶴間で小学校2年生までを過ごしている。祖父が創業したのは、鉄道信号機を製作する板金加工の会社だった。当時、すでに父は高校を卒業後、家業を助ける為に、祖父と共に働いていた。
やがて、会社が綾瀬市にあるさがみ野工業団地へ移転するのと共に、綾瀬市に自宅を購入して引っ越した。
父は高校時代、甲子園を目指した高校野球球児だったという。だから、息子にも小学校3年生から野球を始めさせている。しかし、川崎少年は音楽が好きだった。当時、小学生に絶大な人気を誇ったテレビゲーム「ドラゴンクエスト」や「スーパーマリオ」などにも全く興味を示さなかったというから、少し大人びた子供だったようだ。
「ピアノに憧れたのですが、当時は団地住まいだった為に、ピアノを習うことが出来なかった。そこで近所にムード歌謡の歌手であるフランク永井の専属バンドでギターを弾いていたギタリストが住んでいたので、そこで、クラシックギターを習うことにしました。」 これが、川崎氏が音楽にのめりこむ初めの一歩だった。
市立中学校に入学すると、野球部に入る予定だったが、近所の先輩に誘われて吹奏楽部に入部した。入部してから分かったのだが、学年で男子は一人だけ。だから、顧問にも辞めたいとはなかなか言えずズルズルと続けてしまった。大きくて重いチューバを割り当てられ、それが、今も続けるチューバとの出会いとなった。
「部活では男子一人だけでしたから、すっかり一人でいることに慣れてしまいました。」
そして、恩師である顧問の紹介で、藤沢にある県立高校に吹奏楽の推薦で入学した。吹奏楽コンクール関東大会出場校だった。
学区外の高校だったため、同じ中学から入学した人は一人もいなかった。またしても一人だった。入学後は、残念ながら吹奏楽コンクールはいつも地区予選落ちだったと笑うが、男子部員は学年に7人もいたので今度は一人になることはなかった。自由な校風だったこともあり、夜中に学校に忍び込んでは宴会をしたり、江ノ島周辺で朝まで過ごしたり、冬は長野にスキーに行ったり、サザンのコンサートに出かけたりと、高校生活を思う存分謳歌していた。
その一方で、高校2年のとき、独学でピアノを始めている。実は、この頃、自衛隊の音楽隊に入隊したいと思うようになっていたそうだ。しかし、1年浪人して入学したのは、音大ではなく商学部だった。
大学の商学部の授業には、最初どうしても興味が持てなかった。そこで、音楽大学に転学の相談にいくことにした。しかし、「音大を卒業しても、音楽を仕事にできるのはほんの一握り。せっかく商学部に入ったのに、もったいないですよ。やめたほうがよい。」と事務局の方に断られ、音大への転学はあっさり諦めている。
しかし、音楽は好きだった。大学在学中は母校の高校の吹奏楽部の仲間、別の高校の吹吹奏学部の仲間、社会人バンドの仲間と一緒に合流して市民楽団を作ろうと持ち掛けられる。藤沢市に新たな市民楽団を結成し、大学4年間、事務局長として無我夢中になって運営に携わった。多い時は70人位のメンバーが集まった。
「これが、自分の人生を変える大きな経験になりました。45名ほどいた楽団員をまとめ、運営する役割だったのですが、楽団員の中には、上場企業の役員の方々、アーティストや様々な人生経験豊かなメンバーが多くいた。大いに社会勉強になりました。この経験、人脈が、現在の会社経営や人生の考え方にもつながっていることは言うまでもありません。」
大学2年生になると、高校時代の友人と青春十八切符を使って北海道一周旅行をした。次いで、大学の短期留学制度を利用して、中国・北京に1ヶ月間留学した。さらに、翌年にはインドへ。五木寛之の本や中村天風の影響だったという。
ガンジス川で水浴をし、楽器の音に誘われて覗いてみると、インドの民族楽器であるシタールを奏でている人がいた。後でわかったのだが、インドで有名なシタール奏者だった。誘われるままに、その日から1ヶ月間シタールを習いに通った。
「でも、シタールはとても難しい楽器で、シタールを思い通りに弾けるようにはなりませんでした。」
次いで、マレー半島の旅に出た。シンガポールからバンコクまでヒッチハイクと鉄道で旅をした。
「途中、第二次世界大戦の『コタバル上陸作戦』で知られるマレーシアのコタバルで、『俺の家族は日本人に殺された。お墓に行ってあやまってくれ。』と、連れていかれそうになったこともありました。日本人として歴史に対して無知なことを思い知らされた出来事でした。」
そこで、帰国すると歴史の勉強を始めた。シベリア抑留者の過酷さを知り、大学4年になると、今度は厳寒のロシア、ウラジオストクからモスクワまでのシベリア鉄道に一人で出かけた。全線を乗りっぱなしでも1週間を車内で過ごすことになる。三等車の車内では、現地の子供たちとトランプをしたり、食堂車に入り浸ってはロシア人と手振り身振りで会話し、ロシア大陸の車窓を見て過ごした。年越しは車内でロシア人とウオッカを片手に飲み交わした。ウラル山脈付近に来るとマイナス35度。改めてシベリア抑留者に想いを馳せた。
ところで、大学生活は旅三昧だったので、最終学年になっても就職活動はまだ考えてすらいなかった。当時お付き合いをしていた彼女に「もうそろそろ就職活動しないとやばくない?」と言われ、ようやく近所のダイエーでリクルートスーツを買い、就職活動を始めたという。
それでも、就職氷河期だったがすぐにエクステリア建材の専門商社に内定が決まった。情報システム部に配属され、社内のシステム運用の仕事に就いた。そして、3年ほど経ったとき、上司に「お前は性格的に営業の方が向いている。」と言われて、営業部への移動が決まっていた。しかし、その頃、父が軽度の脳梗塞で倒れた。当時はまだ家業を継ぐことは考えていなかったが、家業、そして父を助けたいと思い川崎製作所に入社することにした。26才の時のことだった。幸いなことに父はまもなく回復し、仕事に復帰した。
川崎製作所での最初の仕事は板金加工の現場仕事からだった。川崎製作所では、手のひらサイズの精密板金から、精度を要する筐体やフレーム架台などの製缶板金のほか、鍍金、塗装処理、組み立てなどに対応している。
後継ぎというプレッシャーもあり、古参の社員からの厳しい指導や見えないイジメにも時には心折れながら、朝から深夜まで、苦労をして現場の仕事を習得した。ひと通り現場の仕事を経験すると、30歳過ぎに営業に転じた。
30才のとき、青年会議所(JC)に入会した。ここで10年間、仲間づくり、組織づくり、まちづくり、そして会社経営のことを学んだ。そしてJC卒業後、41歳の時に神奈川県中小企業家同友会に入会し、その3年後、2018年に経営指針作成部会第54部会を受講している。
実は、リーマンショック(2008年)の時は、売り上げの約8割が半導体関連の仕事で一社依存の状況だった為、大きな打撃を受けたという。その経験から、自身が営業を始めたときに食品向けの装置関連や光学機器、産業機械などさまざまな業種から受注し、お客様を増やしてリスク分散することを考えた。そして、多業種・多品種・小ロット受注の現在のスタイルの板金加工を手掛ける事ができたのである。
これが功を奏して、コロナ禍でも影響は最小限で済んだ。そして、なにより新規営業する際に役に立ったのが、音楽などの趣味の人脈と青年会議所の人脈だったそうだ。2018年、社長に就任した。
ところで、中学時代からブラジル音楽が好きだったという川崎氏は、今もボサノヴァギターを奏でる。ライブハウスなどでの演奏もし、最近では学生時代から出入りしているライブレストランでのセッションを2か月に1回主催している。20名ほど参加し、毎回新しい音楽仲間が集まる。
それと並行して、21才の頃から変わらない楽団のメンバー4人と共に金管5重奏の演奏も時々楽しむ。
またある時、得意先の担当の方が、爪がとてもきれいで大切にされていることに気づいて「もしかしてギターをされているのですか?」と尋ねたことから、フラメンコギターの名手だと知り、影響されて弟子入り。37才から約6年間、フラメンコギターを夢中で弾いていた時期もあるそうだ。
「でも、シタールもそうですが、民族楽器は難しいです。やはり、長い歴史と血脈に裏打ちされた音楽ですから・・・。」
ある日、フラメンコダンサーから「あなたのギター伴奏では踊れない。」と言われて、フラメンコギターはすっぱり止めてしまったそうだ。
一方で、昨年念願のピアノを購入した。「ボールドウィン」という1862年創業のアメリカのメーカーのピアノで、「世界で最も芸術的なピアノ」と評されるピアノである。姿も音も美しく、川崎氏を魅了し続けている。
ところが、川崎氏の趣味は、音楽だけにとどまらない。
25才の時に、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」の歌詞に惹かれて、ディンギーという一人乗りのヨットを始めた。2人の息子と共に楽しんでいた時期もある。現在四艇目で、逗子に保管し、今も2か月に1回ほどは乗っているという。
また、コロナ禍に同友会の経営指針54部会の仲間と共に始めた自転車部で、ロードバイクも楽しむ。富士山五合目まで自転車で登る「富士ヒルクライム」や「ツールド東北」などに出場したというから、相当本気の趣味のようだ。
愛車はシトロエン2CV。フランスのシトロエン社が1948年から1990年まで製造した小型大衆車だが、一1999年に20世紀を代表する車を選んだ「カー・オブ・ザ・センチュリー」選考過程でベスト26に入った名車である。かぼちゃの馬車のようなレトロでお洒落なデザインで知られている。
1台目は26才のときに購入。しかし、大学在学中に市民楽団で知り合い、28歳の時に結婚した奥様が妊娠した際、義父に意見されて泣く泣く手放している。そして、今から2年前、子供も成長したということで、2台目を再度購入。自分で溶接修理や塗装、部品も作ってしまうほどの熱の入れようだ。そして、シトロエン2CVに乗る仲間たちとのイベント参加やキャンプなどの交流も楽しむ。仲間が増え、ネットワークがさらに広がっている。これが、また仕事に結びついていくのだろうか。
ところで、川崎氏には2才下の弟がいる。弟は金融機関勤務を経て、31才で川崎製作所に入社。現在副社長として経理や総務を担当し、お互い仲良く協力しあいながら、二人三脚で川崎製作所を支えている。
株式会社川崎製作所
本社所在地:神奈川県綾瀬市早川2605-34
TEL:0467-77-0411
URL:https://kawasaki-seisaku.co.jp
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>