社員から社長に。入社1年後から社長と共に、時には1人で、神奈川同友会の例会や研修に参加し続け、入社後わずか14年で前社長の意向を受けて株式会社サンヨーシステムの社長に就任したのが、株式会社サンヨーシステム 代表取締役の鈴木圭祐氏である。
その人柄は、豪快でありながら、緻密。人懐こい笑顔に、出会った人々はつい引き込まれてしまう。
しかし、その歩みは既定路線からは少し外れていた。今回は、その遠回りの人生についてお話を伺った。
1977年、横浜市港南区の野庭団地で、長男として生まれた。1才年上の姉がいる。両親は大学の学生運動で知り合ったというが、バリバリの闘士だったわけではない。母はオールデイズの音楽が好きで、家の中にはいつもプレスリーの音楽が流れていた。
4才になると、大和駅近くに祖父母との二世帯住宅を建てて引っ越した。父は市役所に勤める公務員。母は、圭祐少年が小学校2年生になるまでは専業主婦をしていたが、その後弁護士の秘書として働く傍ら、自宅で英語教室を運営した。それもあってか、姉はその後アメリカの大学に留学し、国際結婚をしてアメリカに在住している。
幼少期の圭祐少年は、今と同様に社交的でよくしゃべる子どもだった。
その一方で、慎重派で、人を観察することが好きだったという。観察する中で少しでも違和感を感じとると、とことん調べた。
「どうして、そうしたの?」「なぜ、そう思うの?」矢継ぎ早に訊ねた。
小さな子どもにはありがちだが、ちょっと面倒くさい子どもだったようだ。
一方で、記憶力も良く、3才の頃の記憶も断片的にあるのだという。
父方の伯母が高名な柔道家の妻だった。そのため、小学校に入学するとすぐに、姉と共に伯父が経営する道場に通わされた。
「当時、伯父は日大柔道部の監督をしていて、自宅で道場と接骨院も経営していました。その道場に週3日、姉と共に放課後電車で通っていたのですが、その伯父がとにかく怖くて、練習も厳しく、1日も早くやめたくて仕方がありませんでした。人と戦うことも好きではなかったから。でも、伯父があまりに怖くて、両親さえも逆らえなかったらしく、中学2年生までやめさせてもらえませんでした。」
世の中には思い通りにならないことがあること、人にはそれぞれに事情があること、強いものには逆らえない世の中の仕組みがあることを、そこから学んだと笑う。
でも、それ以上に、礼儀など社会に出てから大切なことの多くをそこで学んだ。だからこそ、自分の子供たちにも格闘技を習わせているのである。
それに加えて、小学校三年生になると、習字、そろばん、水泳、進学塾、ボーイスカウトと多忙な小学校時代を送っている。
「習い事が多すぎて、とにかく忙しい子どもでした。」
伯父の勧めで中学は日大に入学する予定だったが、日大には進学しないと初めて両親に反抗した。でも、その代わりに道場通いはやめないという約束をさせられた。
入学したのは、地元の公立中学校だった。
これまでできなかったことを取り戻すように、遊びまくった。ロックバンドを組んで、プロを目指したが、いざオリジナル曲を作ろうとすると、社会へのアンチテーゼが自分の中に何もないことに気づき、あっけなく挫折した。
あまりにも恵まれた生活をしていたことに気づいた。
高校に進学すると、アルバイトとバイクなどの遊びに明け暮れた。そのため、高校2年生の時に単位が足りなくなり、留年を告げられ、自主退学をすることになってしまう。
しかし、後悔は全くなかった。それは、働いていた方が楽しかったから。だから、今で言うところのフリーターになった。実は、以前から少しでも早く社会に出て働きたいと思っていたという。
ガソリンスタンド、ピザ屋のデリバリーなど、アルバイト生活は20才すぎまで続けた。
そんな中、18才の時、実家が区画整理で立ち退きになり、緑区霧が丘に引越をすることになった。大和の下町的な暮らしから、神奈川県内でも世帯所得が最も高い人々が住む青葉台での暮らし。一気に環境が変わった暮らしが待っていた。すると、アルバイト先の同僚も、東大生や慶応大、早稲田大などの大学生が増え、会話の内容も変わり、友人との遊びも、やんちゃな遊びから大人びたものに変わっていった。
次第に大和の友人から足が遠のいていき、自分の人生を見直すようになっていった。このままではいけない。
高等学校卒業程度認定試験(旧・大学入学資格検定)を受けて、大学受験をすることにした。予備校にも頼らず独学で勉強を続け、大学に合格した。専攻したのは法学部だった。
当時母が勤めていた弁護士事務所の先生は、検事上がりの弁護士だった。択捉島出身で、10人兄弟。
働きながら司法試験に合格し検事になった苦労人である。その先生が、鈴木氏の法学部合格を自分のことのように喜んでくれて、収集していた時計の中からロレックスの腕時計を贈ってくれた。
「でも、そんな高価な時計は今の自分にはまだ似合わないと思い、20年以上仕舞い込んでいました。それを取り出して初めて身につけたのは、社長に就任した日でした。」
そう語る鈴木氏の腕には、ロレックスの腕時計が光っていた。
大学を卒業するのには、5年間かかった。
実は、「中卒」ではなく「大学中退」になれればそれでいいと当初は考えていた。年下の学生に混ざって勉強することにも抵抗があった。
それもそのはず、周囲の学生より5~6年も遅いスタートである。これまでのツケを払わされている気がした。そんな焦りもあり、すぐにやめて就職することも考えた。
しかし、アルバイトをして溜めた自分のお金で学費を支払っていたこともあって、思いとどまった。それからは、受けられるだけたくさんの授業を受けてやろうと思い、20単位も余分に履修し、卒業にこぎ着けた。
「追い込まれると、つらさを忘れるために余計に負荷をかけたくなる性分なのです。」
2005年、大学卒業。その時、鈴木氏はすでに28歳になっていた。当然新卒での就職活動は難しいと考えた。
そこで、半年間はまたもフリーターをしながら、中小企業を中心に就職活動を展開。そして、3社合格したうちの1つが、株式会社サンヨーシステムだったという。
ほかの2社は、名の知られた大手企業だった。しかし、サンヨーシステムは土日祝日休みで残業なしなのが魅力的だった。
「ところが、面接に訪れたサンヨーシステムの社屋は、『ドラえもん』の『のび太の家』のようなボロボロの古い一軒家でした。見上げると看板が出ていたので恐る恐る訪ねると、出てきたのは1ヶ月前に入社したばかりだという美人の社員でした。こんなぼろい会社にこんな美人が入社しているのだから、それなりの理由があるはずだと思いました。」
そのころ、株式会社サンヨーシステムは創業10年目。板倉陽三氏が57才 で創業した社員10名ほどの小さな会社だった。
実は、板倉氏は27才の時に当時勤めていた会社の先輩と第一創業をし、株式会社サンヨーシステムは第二創業の会社で、この時すでに移転予定だったという。
この板倉氏との出会いが、鈴木氏の人生を変えた。これが、鈴木氏が生涯尊敬することになる板倉氏との出会いであった。
蛇足ながら、その時鈴木氏を出迎えてくれた美人社員は、今も役員として会社を支えているという。
株式会社サンヨーシステムは、三菱電機の特約店として三菱電機機器製品の取り扱いを中心に、産業用電気機器を販売する専門商社である。主に、ものづくりのIOT化や各種製造ライン機械装置の自動化・システム化のための機器を手掛けている。
三菱電機は、現在、国内産業用電気機器製造の六割を占める。サンヨーシステムは、三菱電機の安定した企業力を背景に、コロナ禍の収束、半導体不足による売り上げ減少を経た後、昨今は順調に売り上げを伸ばしている。
しかし、常に順調だったわけではない。入社1年半後には社内で不正が発覚し、社員の半数がやめるという大量離脱が発生している。
創業以来のメンバーが離脱し、残ったのは、新たに入社した社員だけだったそうだ。離脱した社員の中には、次期社長候補も含まれていた。その上、不正の影響で、会社には7,000万円もの重加算税が課せられていた。板倉社長はすでに高齢だったこともあり、会社はこれまでかと思われたが、存続を決断。
「これだけの逆境になると、逆に俄然やる気が出てくるタイプなんです。」と、鈴木氏。そこから、社長と共に同友会の活動にも積極的に参加し始める。
すると、入社して3年目、例会からの帰り道に板倉社長から「会社を残したいのだが、社長を目指して頑張ってみないか?」と、打診された。迷わず快諾。そこから、社長継承に向けての修業が始まっていった。
だからと言って、社長になることが確約されていたわけではない。それから、10年かけて平社員から社長に向かって一段ずつ階段を上り、社長として育てられていったのは言うまでもない。
そして、2016年、満を持して営業部長として役員に就任し、2017年8月に同友会に入会。
同年10月に経営指針作成部会第51部会を修了し、2019年に、弱冠41歳で社長に就任した。
ところが、社長になってわずか2年目に板倉会長が急逝し、コロナ禍が始まった。売り上げは3割減。しかし、助成金を申請し、なんとか乗り切った。だが、翌年には半導体不足が発生した。注文はどんどんくるのに、出荷ができない。
社長になって3年目で初めて赤字に転落した。不安もあり、社員に対しても懐疑的になった。
すると、社員が毎月1人ずつ、合計7人も辞めてしまった。
当然、社内にも不安な空気が蔓延し始める。同時期に鈴木氏はバセドウ病を発症し、何と半年間は社員がいる時間帯に会社に行くことができなくなってしまったのだそうだ。
社員が退社したころに出社して仕事をこなす日々が続いた。こうなるともう、社員とも自分とも、向き合うしかない。
社長と社員は写し鏡のようだった。社長の心持が変わるとともに、社員たちの心も落ち着いていった。幸い、残ってくれた社員は優秀な人ばかりだった。そこから、立て直しを開始した。
まずは、経営指針のさらなる浸透を図った。経理の社内公開も継続。社長の給料も社員に公開している。
「本当の幸福とは何だろう、と考えました。権力・支配力は足元を見えなくします。」
そこで、権力、支配力、財産、名誉を社長が必要以上に持たないようにし、社員に投資することにした。現在、半分弱の自社株は社員が保有している。
趣味は筋トレと登山。毎日欠かさず筋トレをする一方で、登山は30才代前半に登山家になった友人に誘われて始めた。しかし、初めての登山は、開始15分ほどで死ぬかと思うほど苦しかったと語る。でも、筋トレが趣味で本質的につらいのが好きなこともあり、ストレス発散を兼ねて続けていると笑う。
ただし、1日で完結するのが好きだからと、2,000m級の山も日帰り弾丸登山がほとんどらしい。
景色を楽しむというよりは、早く下りたいと思いながら登るというから、少々変わっている。同友会の仲間とも、年に数回は一緒に登山している。しかし、その時だけは、ちゃんと温泉旅館に泊まるそうだ。
同友会では、今年度から社員教育委員長に就任した。
少子化が進む中、若い人に入社してもらうことが自社にとっても課題の1つだという。昨年からの転職ブームにも、警戒感を強める。だからこそ、採用に対しては大胆かつ緻密な戦略を練り始めている。間違いなく、今後の発展が楽しみな会社なのである。
株式会社サンヨーシステム
本社所在地:川崎市中原区今井上町12-11 高秀ビルB1F
TEL:044-711-2900
URL:https://www.sanyo-system.co.jp
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>