鎌倉・稲村ヶ崎。海岸沿いを走る国道134号線から一本入った小路沿い。玄関前は江ノ電がコトコト走る、水色の可愛い住宅の1階にあるのが、システム開発と障がい者向けの旅行事業を営む「株式会社ロジナス」である。
社長の山本啓一氏は、今年度ダイバーシティ委員長に就任した。
白髪が混じるポニーテールに、日焼けした笑顔。湘南がよく似合う山本社長だが、出生地は愛知県である。
1967年、名古屋市内の病院で、高校教師をしていた両親の元に、第二子、長男として生まれた。1歳年上の姉がいる。
父は商業高校の教師、母も高校の地理の教師だったから、幼少期から保育園に通い、母方の祖母に面倒を見てもらうことが多かったという。だから、保育園で作った母の日のプレゼントを祖母にあげてしまい、母をがっかりさせてしまったこともあるのだと笑う。また、保育園で飼っていたウサギが、ほ乳類なのに「卵を産んだ」と言い張るような、ちょっと頑固な一面もあったようだ。
住まいがあった岩倉市は、田んぼが広がるのどかな地域で、市内の小学校に入学すると、田んぼでヘビを捕まえて遊んだ。
しかし、小学校4年生のときに名古屋市内に引っ越しをすると、母の希望で絵画教室に通うようになる。
「『サクラクレパス賞』というのをもらい、母がとても喜んでくれましたが、実は絵を描くことにそれほど興味がなく、工作をする方が好きでした。」
名古屋市内と言っても外れの方で、自然豊かな地域であったから近くには里山もあり、友だち数人と崖をよじのぼって遊ぶような腕白な日々を過ごした。
そして、中学校へ進むとハンドボール部に入った。3年間続けたが、レギュラーを狙うほどには夢中になれなかった。両親と姉は朝早くに家を出て出勤・登校するので、時には一時間目をサボって家にいることもあったが、友人と「こっくりさん」をして遊んだり、ゲームセンターに行ったりと、ごく一般的な中学生活を過ごした。
また、この頃パンクロックに興味を持ち始め、エレキギターを始めている。アナーキーやセックスピストルズ、クラッシュなどのコピーバンドを組んだが、それにもことさら熱中することはなかったのである。
高校は、名古屋市立北高等学校に進学した。それを機に、同じ名古屋市内だが高校に近いマンションに引っ越した。それでも、自転車で4~50分かかったという。ここでも、ハンドボール部に入部した。ちょっと斜にかまえ、一生懸命さを見せないことが格好良かった時代である。硬派を気取り、同級生の女の子に告白されても、付き合ったりしなかった。男同士で、葦が群生する河原に自転車でノーブレーキで突っ込むという遊びに興じ、友人宅にたむろして麻雀を楽しみ、ライブでギターを演奏したりした。
何かにすごく夢中になるということもなく、それでも楽しく過ごした高校時代だったが、進学を控えた高校3年になると、猛勉強を始めた。
「とにかく、家を出て一人暮らしをしたかったんです。そうするとお金がかかるから、国公立大学に入らなくてはと考え、猛勉強を始めました。」
当時国立の理系専門大学では東京工業大学に次いで難関だった電気通信大学を目指し、見事に合格を果たした。
大学入学当初は意気込んで勉強していたが、大学の1~2年は一般教養課程とあって、あっという間に興味を失い、アルバイトに励むようになっていった。居酒屋のホール、アパレルショップ店員、運送屋と、様々なアルバイトをし、得たお金でオートバイを買い、信州、九州、北海道、東北などへのツーリングを楽しんだ。
そして、大学3年のときにパチスロにはまる。友人に天才的なプログラマーがいて、パチスロの中古機を買って解析し、必ず勝つ方法を見いだしたという。ただひたすらにパチスロをする人々が打つ台を観察し、法則が当てはまるタイミングで打つ。朝10時から23時までパチンコ店にいたこともしばしばあり、月に3~40万稼いだと語る。
「だけど、時給に換算すると、最低賃金程度なんですよね。それに気付いて、ばかばかしくなってやめました。パチンコは時間の無駄だとよくわかりました。だから、今は全くやりません。」
こんな大学生活だったから、単位を落として1年留年し、卒業した。
「当時は、サラリーマンにはなりたくないと思っていました。」と、山本氏。それでも、サラリーマン以外の選択肢が見つからず、就職先を考え始めることになる。
大学を一年間留年したため、同級生は先に社会人になっていた。そこで、すでに友人が入社していた日興證券(現:SMBC日興証券株式会社)一社だけを受験し、無事合格して入社した。
配属先は、情報システム部だった。
「ぐうたら生活に飽き、大学生活で能力が劣化したと感じていましたから、社会人になるとまたしても猛勉強を始めました。(笑)」
証券アナリストの資格試験に同期でもトップクラスで合格し、その後も情報処理関係の資格を次々に取得していった。当時はバブル景気まっただ中だったので、日興證券は新入社員を大量採用した時期だったが、営業職を中心に、その数は3年で5分の1になるほど厳しい世界だった。
同期でもトップクラスの成績だったので海外赴任を希望したが、山本氏がそのメンバーに選ばれることはなかったという。しかし、当時の業務内容はその努力に見合った魅力的なものではなかったようだ。そこで、5年経った28歳の時に転職を決意する。
ところで、日興證券時代はバブル景気の余韻の中、週2回合コンをする日々だったという。
実は、そこで知り合った女性が、現在の奥様なのである。意気投合し、4年間の交際期間を経て結婚し、2年後に一人息子を授かっている。
1995年、日興證券から転職した先は、エー・アンド・アイシステム株式会社であった。日本IBM株式会社と 株式会社富士ソフトABC(現、富士ソフト株式会社)の出資により1987年に誕生し、2000年に上場した会社である。給料は良かったが、大規模なシステム開発プロジェクトの一部分を担う仕事はつまらなかった。
そこで、証券アナリストや情報処理の資格を多数取得していることなどを役員に猛アピールした。すると、すぐに本社の自社システム開発の部署に転属になった。同社の花形部署である。
やがて、パルティオソフト株式会社よりソフト電池共同開発のオファーがくると、山本氏はその担当になる。恵比寿に拠点が設けられ、その担当者はエー・アンド・アイシステム側では山本氏のみ。自分の知識を注ぎ込み、思い通りに発揮できる場を得て、水を得た魚のようになった。
だが、1年経ってもソフト電池はできあがらず、他の仕事を兼務するようになる。それでも完成することはなく、やがてエー・アンド・アイシステムは出資を引き上げることになる。
しかし、山本氏はソフト電池開発の仕事が面白くなっていた。どうしても諦めきれず、エー・アンド・アイシステムを退社し、パルティオソフトに入社してしまう。
「迷いはありませんでした。」
しかし、パルティオソフトに入社して1年ほどで資金が底をついた。そこで、山本氏は大胆にも給料無しでもいいからと、ソフト電池の開発継続を提案する。
当然家計も支えねばならず、別の収入源となるシステムの受注開発を始めることになった。
山本氏が開発に魅せられたソフト電池とは、Windowsアプリケーションに著作権保護を施し、期間ライセンス/永久ライセンス/月額課金で販売できるようにするアプリケーション・サービスである。ソフトを動かすための“仮想電池”であり、対応ソフトウェアはソフト電池とセットになって初めて動く。(パルティオソフトHPより)
現在、ゲーム関係に主に使用されているという。2002年にサービス提供が開始され、2008年には6,200万円を売り上げるまでに成長した。山本氏は、現在パルティオソフトの取締役も兼務している。
2011年9月、自分の世界を持ちたいと逗子にある自宅マンションで起業し、システム開発の会社「株式会社ロジナス」を設立した。ここでは、独自に開発したスマートフォン向けアドベンチャーゲーム配信システム「Adv.Master」の保守・販売をしている。
実は、山本氏のご子息は5歳の時に自閉症の診断を受けている。
そこで、縁あって、2013年に中小企業家同友会主催の障がい者問題全国交流会に参加する機会を得た。
「その後、障がい者委員会(現・ダイバーシティ委員会)に入りたくて、神奈川同友会横浜みなと支部に入会しました。実は、経営の勉強をする会だということは後から知ったのです。
一般的に、ゲームソフト開発の会社は『やる気搾取』の企業が多く、ゲーム開発に携わりたいという若者の気持ちに頼った働き方が現状です。残業が多く、労働環境があまりよくない会社が多い。しかし、私はもっと良い働き方を社員にしてもらいたかったので、同友会で経営の勉強を始めました。」
2014年に、経営指針作成部会第45部会を受講した。
そして、2015年、鎌倉・稲村ヶ崎に移転することになる。オフィス内には、サーフボードが置かれ、昼休みには気分転換にサーフィンもできる恵まれた環境だ。
「でも、サーフィンをするのは私だけで、現在8人いる社員は全く興味がないようです。『教えてあげるから』と行っても、誰もやろうとしません。しかも、ここにあるサーフボードの半分は、大家さんでもある友人のボードなんです。」
2~3階は、友人の住居。ここに住んでいた日興證券時代の友人が都内に転居することになり、1階を事務所として借り受けたという。「サーフボードはここから動かさない」というのを条件に、1階を借りていると笑う。
日興證券時代からのサーフ仲間なのである。
従業員のコア出勤時間は朝の10時から15時まで。朝6時に出勤するスタッフが3人もいるそうだ。しかも、コロナ禍になってから、テレワークが始まり、最初は戸惑っていた社員たちも、今ではすっかりテレワークが気に入り、定着しているという。インタビューにお伺いした日も、社員は1人も出社していなかった。社長1人が出社し、パソコンの画面上で業態管理をしている。しかし、「明日は、全員出勤日です。定期的に集まる日を設定するようにしています。」と、山本氏。コロナ禍を経て、新しい働き方が生まれているようだ。
実は、ロジナスの事業はコンテンツ業務に留まらない。
2017年より神奈川県に旅行事業登録をし、「ツアードゥ」という旅行事業を運営している。主に取り仕切っているのは、典子夫人である。
「ツアードゥ」では、障がいのある子どもを持つ家族向けのツアーを手配している。
始まりは、息子さんが10歳の時。逗子市に多額の寄付をした人がいて、そのお金が福祉団体に配られたという。そこで、その活用法を話し合った結果、「普段出来ないことをやろう」と、障害のある子どもがいる6家族でグアムに海外旅行をしたのだそうだ。元々、障がいの特性により、長時間待つことが苦手であったりと、心配ごとがたくさんあって、障がいを持つお子さんがいるご家族は公共機関での旅行をためらうことが多い。そこを適切に配慮・手配できる旅行会社があったらいいな、と一念発起した。
2016年、結婚前に旅行会社に勤務していた典子夫人が、難関の「旅行業務取扱管理者」の資格を無事取得。残念ながら一緒に受験した山本氏はあえなく撃沈したそうだが、2018年12月には初めてのツアー開催にこぎ着けることができ、障害があるお子様を持つ4軒のご家族にリフレッシュしていただくことができた。
その後、新型コロナウイルス感染拡大でツアーの企画は中断しているが、宮古島へロケハンに訪れたりと、コロナ終息後の準備も万端だ。因みに、「ツアードゥ」の「ドゥ」は同友会の「同」なのだとか。
北海道同友会が発足した航空会社「エアードゥ」に因んで付けられている。
株式会社ロジナスでは、経営指針における人事方針で、10名に達するまで1年に1人新卒相当社員を雇用することを掲げている。今年も1人新入社員を採用した。現在、典子夫人を入れて八人の社員が働いているが、その内の2人は障がい者手帳を持つ人だ。統合失調症と発達障がいだというが、社員にアンケートをとったところ、「居心地が良い。働き方に裁量があるのが良い。納期の厳しい業務が少なくストレスが溜まらない。」といううれしい回答が返ってきたという。
「『もっと仕事を受注すれば、給料も上げられるよ。』と言ったら、それは拒否されました。」と、笑う。仕事に対する価値観が、お金では計れないところにあるようだ。
「2028年に社員30名、売上2.5億円が目標です。そのためには、自社製品を増やしていきたいと考えています。
個人の裁量が増えれば、社員それぞれがもっと楽しく働ける。もっと自由に働けると思っています。」と、山本氏。
社会の枠にとらわれない、自由な生き方や働き方が、ここにはあった。
株式会社ロジナス
本社所在地:逗子市新宿一丁目1番10号
TEL:046-874-4754
URL:http://www.loginas.co.jp/
<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>