いつも笑顔のバイタリティーあふれる女性社長。それが、精密板金加工会社「株式会社スタックス」を率いる星野妃世子氏に対して誰もが抱くイメージである。
だが、その笑顔の裏の素顔には、波乱万丈、苦難を乗り越えてきた人生が隠されていた。
星野氏は、1955年3月、川崎市中原区下沼部、JR南武線・向河原駅のすぐ近くで3人姉妹の長女として生まれた。当時、田園に囲まれたこの地で、祖父は「エッキス」と言う名の湯薬を銭湯に卸販売・輸出する事業を営んでいた。
父はNEC玉川事業場の板金機構部に勤務していたが、結婚を機に独立し、「エッキス製薬株式会社」の中に板金部門を立ち上げた。星野氏が3歳の時、NECとの取引を機に社名を「大星工業株式会社」に改名している。
女の子であった星野氏は後継ぎであることを意識せずに育ったと言うが、小学校時代から後継ぎとしての英才教育は始まっていたようで、引っ込み思案で人前に出ることが苦手だった星野氏に父が勧めたのが、何と民謡教室だった。県の代表として、国技館で開催された全国大会にも出場したというから、その歌声は折り紙付きである。
こうして度胸を付け、人前で表現することの楽しさを知った星野氏が、カリタス中等学校に入学して選んだのが、演劇部だった。その後、高等学校、短期大学と演劇に打ち込んだ。一時は本気で女優になることも考えたようだが、父の反対によりあっさり諦めている。
富士短期大学に入学し、そこで専攻したのは経済学部税理士過程だった。これは、事業を承継した後、大いに役に立ったことは言うまでもない。企業承継を望む父の想いがここにも表れている。
学校高学年のころから、リーダーシップをとることが増えていった星野氏が、短大卒業後の進路に選んだのが、田中貴金属工業株式会社だった。当初、卸問屋への就職を希望した星野氏だったが、「向いていない」という父のひと言で田中貴金属工業への就職を決意する。金属加工という括りでは、いわば家業と同業である。
配属されたのは、財務部だった。だが、仕事ぶりを見込んだ総務部長から為替課への移動を打診される。為替課と言えば、金属売買の中核で、値決めに反映される重要な部署である。その重大さにも物おじせず、即答で快諾する。社長以下重役がずらりと並ぶ御前会議に出席するなど、ハードな日々の始まりだった。
だが、結婚を機にスッパリ退社する。父の知人からの紹介による見合い結婚だったという。大学の社会哲学科を卒業して岩波書店の子会社に勤めていたご主人は、自転車で旧跡を回り、地図を描くのが好きな几帳面でまじめな人。養子縁組をし、夫婦で星野氏の家業を手伝うことになる。
当時、大星工業株式会社は、すでに新潟県十日町に250坪の新工場を設立していた。門外漢だったご主人はゼロから仕事を覚え、激務をこなしていった。
しかし、この頃思いもかけないことが起こる。長女がわずか2歳で、長男を妊娠中に、母が乳がんになる。そして、がんの苦しみからやがて鬱状態になり、自殺してしまう。
母を亡くし傷心の中、さらに星野氏を不幸が襲う。翌々年、ご主人が心筋梗塞で急逝してしまったのである。
星野氏は、突然シングルマザーになってしまった。だが、義弟を専務に据えた会社も、うまくいっていなかった。そんな時、祖父の代から会社を支えてくれていた幹部社員から、星野氏の事業への参入を懇願される。
幼子を2人抱えていたが、星野氏はその申し出を何と快諾した。
「頼まれたら『はい、喜んで』と言うのが父の教えだったので・・・。」
翌年には専務取締役に就任し、子供を抱えながら、父と二人三脚で奮闘する日々が始まった。
専務就任後、最初の仕事が勝浦工場の新設だった。この頃には、田園ばかりだった本社の周囲は住宅街となり、機械の騒音への苦情が出るようになっていた。父のアイデアで、購入したばかりの機械「ターレットパンチプレス」を鉛の板で囲い、足には振動を吸収するクッション材を履かせるなど、工夫を重ねてはいたが、シャーリング(材料切断)の音への苦情は防げなかった。そこで、本社工場部分を勝浦工場に移設することにした。
この頃、マイクロ波通信制御の精密部品製作に注力していた大星工業株式会社の事業は、どんどん拡大していた。 そして、CI(コーポレイトアイデンティティ)の波に乗り、社名を「スタックス株式会社」に改名し、2001年、星野氏はついに社長に就任する。
しかし、社長になったばかりの星野氏をさらに試練が襲う。
ただスタックス株式会社の売り上げの半分を占める大手取引先から、コストダウンを要求されたのである。以前からコストダウンを幾度か要求されていた。だが、小ロットでの納品を求められていたので、まとめて生産し、順次小ロットで納めることで利益を確保していた。だが、それに気づいた取引先から、半期契約でのコストダウンを要求されたのである。
これにはどうしても首を縦に振ることができなかった。すると、3か月後の取引終了を通告されてしまう。これにより、スタックス株式会社は大量の在庫を余儀なくされ、人員整理をせざるを得なくなってしまう。星野氏の社長就任後の初仕事が、何と社員を半分にする人員削減だったのである。
まず、パートさんに辞めてもらった。次いで、十日町工場の社員の一部にも退職金を確保する確約をして、辞職を容認してもらった。
「やらなければ、会社を存続していけなかったのですが、本当につらかったです。」と、星野氏は語る。
こうして、危機を乗り越えたスタックス株式会社は、これを教訓とし、一社依存体質からの脱却を図っていく。
大量生産より多様化の時代が来ると時代を読み、少量の部品を積極的に次々に受注していった。「多品種少量生産」に舵を切り替えたのである。
2009年、知的財産マッチングで富士通の特許利用権利を得て、「免振台脚」を開発した。
次いで、統廃合で廃校となる新潟県十日町六箇小学校を買い取ることが決まった。当時、十日町工場は手狭になり、増改築を重ねて非効率的になっていた。そこに、「工場進出企業グループ」の会長を務めたことでパイプができていた行政から、廃校払い下げの提案があったのである。
だが、ここでもハプニングが襲う。東日本大震災が起きたのである。それでも、翌年には1,000坪の敷地を持つ工場ができ上った。移転5年目には地元の方々とのバーベキュー大会もし、地元との交流も深めている。従業員には、もちろん地元の方々を雇用し、地元の雇用拡大にも貢献している。グランドには、何とドクターヘリが降りる場所もあるという。
現在、勝浦工場では精密板金加工ができるワイヤー放電加工を、十日町ではレーザー加工やファイバーレーザー加工、YAGレーザー加工をしており、工場ごとに業務の振り分けを図っている。
また、銅・真鍮・アルミにも対応し、特殊なR曲げ加工もするなど、競合他社との差別化も図り、惑星探査衛星の部品や医療機器筺体を受注している。
高精度・高品質な加工と納期の正確さが高い評価を得て、大手企業からの新規取引も次第に増えてきた。来年には、事業承継し、長男が社長を引き継ぐ予定だと、星野氏は顔をほころばせた。
星野氏が同友会に入会したのは、2009年のこと。入会後、すぐに経営指針作成部会第36期を受講している。その後まもなく川崎支部の幹事に就任。次いで、川崎支部長を務めている。
同友会入会前の2001年には、川崎市青年工業経営研究会の会長にも就任しており、その手腕を見込まれて、現在は神奈川同友会の政策委員長を務めている。この他にも、川崎市中小企業活性化条例の専門家委員会・協議委員会にも名を連ね、今年四月には横浜IoT共同組合設立の初期メンバーにもなった。
同友会に入会して、大事な仲間がたくさんできました。相談し合え、刺激し合える素敵な仲間です。」と、目を輝かせる。
5歳の孫に目を細めるおばあちゃんでもあるが、まだまだやりたいことがたくさんあるようで、周囲からの期待も大きい。
意外なことに編み物が趣味で、今はバッグなどの小物を作り、仲間にプレゼントして驚く顔を見るのが楽しいと語ってくれた。
株式会社スタックス
本社所在地:川崎市中原区下沼部1750
URL:http://stax-tqs.co.jp
〈取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林 正幸〉