株式会社アートプロジェクト 代表取締役 中村暢宏氏

冒険はしない
コツコツと今できることを精いっぱいやってお客様を味方につける!

今回訪れたのは、同友会総務委員長を務める「株式会社アートプロジェクト」代表取締役の中村暢宏氏。
横浜市港南区で父が1968年に創業した、店舗の内装工事の設計と施工管理を手掛ける会社の2代目社長である。

外遊びに熱中していた小学校時代に父の会社を継ぐと決めた

中村社長は、1966年、地元、横浜市港南区で主に商業施設の内装を営む両親の元、長男として生まれた。
小学校の頃は同じ団地に住む子どもたちと学年関係なく、缶蹴り、三角ベース、野球などをして遊んだ。

小学校2年生から始めた水泳は小学校卒業まで続け、6年生の時には学校代表として、市の大会に出場。
それをしてもなお、体力があり余っていた中村少年は、時間があると上大岡や港南台、遠くは鎌倉まで自転車を走らせた。目的はない。
着いたらジュース買って飲んで帰る。ただそれだけだが、運動することは嫌いではなかった。
半面、人と交わるのは得意ではなかった。集団の中にいるのが嫌で、小学校の朝の集団登校にも加わらず、一人で学校に行くほどだった。

会社を経営する父と、そこで経理をしている母は忙しく、家族旅行に行くことはめったになかったが、日曜日に父が会社や現場の打ち合わせに連れて行ってくれた。
会社で勝手に遊び場を見つけては、1人で遊んだ。この頃からある思いが芽生える。
6年生の卒業文集に「父の会社を継ぐ」と書いた。

同業他社で修行 そして、父の会社に入社

株式会社アートプロジェクト 中村暢宏氏

日大藤沢高等学校に進学し、その後、日本大学短期大学部建設科建築コースへと進んだ。
大学への編入も考えていたが、いざ講義を受けると建築の勉強が思っていたのとは異なり、全く面白くなく、苦痛の2年間だった。大学に編入してさらに建築を学ぶ気持ちが湧くはずもなく、卒業後は父の仕事とは全く関係のない、輸出する車を船まで運ぶアルバイトを始めた。
1年経ち、このままではいけないと感じていた時に父から、人形町にある同業他社「株式会社東京スペース(現 株式会社スペース)」に行ってみないかと言われ、行くところがあるならやってみようと思い、内装の施工管理の仕事に就いた。

任されたのは現場管理の仕事だが、教えてはくれない。
職人から「道具を取ってくれ」と言われても、道具の名前がわからないから、「これ?」「これ?」と5,6回繰り返して渡す。
職人からは「降りて自分で取ったほうが早かったな」「疲れるな」と言われた。

4年勤めた後、父がM&Aをして新たに作った「アート大洋」に26歳で入社した。
翌年の1991年に会社は「アート店装」と「アート大洋」を合併し、社名を「株式会社アートプロジェクト」に変更した。設立25周年だったこともあり、合併記念、新社名のお披露目も兼ねて、取引先を招待し、磯子にあったプリンスホテルで盛大にパーティを開催した。
この頃の売上高は49億円、社員も100人近くいた。

27歳の時に、父から経営の勉強をしてこいと言われ、中小企業大学校経営後継者コースで経営の勉強を始めた。
全国から次期後継者が集まって、お互いのやりたいことを語り合ったり、ものづくりの現場を見に行ってレポート書いたり、自社の課題に対して改善策を考えるのは面白かった。
だが、この時は、将来事業承継すると思いながらも、その責任の重さがどれ程のものか、想像すらしていなかった。

父が倒れた 先が見えない不安の中で船出

ある日、見ていた景色が突然変わった。2000年、社長である父が脳梗塞で倒れたのである。
半年後、35歳で2代目社長に就任。この年の売上高は16億円、営業損失は3600万円だった。
1992年頃まではまだ30億円以上の売上げをキープしていたが、その後売上高は徐々に右肩下がりになっていたこともあり、不安しかなかった。

銀行が連帯保証人の変更手続きをしに来た。住所と氏名を書いて、最後に印を押す。「たったこれだけのことだったが、本当に押していいのか、これ押しちゃうとどうなるんだ。お金を返せなかったらどうなるんだ。怖い。連帯保証ってこういうことか。」ハンコの重さを初めて経験した。

借入金もあり、業績もよくなく先が見通せない。月末が来るたびに支払いに追われた。眠れない日々が続く。

そんな中、転機が訪れた。
創業間もない頃から取引きしていたお客様から、東京と神奈川にある全店舗の看板取り換え工事と、それに伴う改装工事の依頼が舞い込んできた。毎月マイナスだった資金繰りが、少しずつではあるが、ようやく好転していった。

仕事で次の仕事をもらう お客様が新しい縁をつないでくれる

社長就任から19年。現在従業員は19名。就任当初は、社員の生活を保障しなければという思いだけだった。
世の中には優秀な後継者がたくさんいて新しいことを始める人もいるが、維持することが精いっぱいで、冒険する余裕もなく毎月毎月が勝負だった。
今、親父が思っているような理想的な後継者かどうかわからないが、ひとまず続けられているので不合格ではないだろう。

父は経営に秀でていたというより、人徳と誠実さ、そして経済環境の時流に乗って、成長させてきた経営者。
人間としてとても素晴らしいと思っているし、父として今も尊敬している。倒れたあと、関係する人たちから、お父さんにはお世話になったと誰からも言われた。
自分事より他人事を優先する人だった。親父と同じようにできるかといえば、できない。なかなか追いつけない、永遠の課題だ。

それでも、コツコツと今できることを精いっぱいするしかない。今はコロナ禍にあり、積極的に営業ができないが、仕事を評価してくれた取引先が顧客を紹介してくれる。お客様から社員が褒められるのも嬉しい。

母は、いまだに現役で経理を担当してくれている。まだまだパワーがある。元気でいてくれることがありがたい。

4年前に、中小企業大学校経営後継者コースでともに学んだ同期が結んでくれた縁で再婚した。
一目ぼれしたのは彼女の方。好みのタイプと言われたが、遠距離ということもあり、電話するだけの関係が続いた。
最初は興味ない態度をとっていたが、たまたま相手もバツイチで、こうすればお互い失敗するのかを経験済み。
結果的になるが再婚することになった。最近は一緒にスパに行って、長いときは8時間過ごす。
スパだと別行動なのでは?「いえいえ、『1時間後ね』って、合流しますから。」と破顔した。

今年で55歳になるが、会社のこれからを考えると、冒険するほどではないものの、新たにやりたいことが2つある。
1つは内製化。現在、店舗の内装工事で手掛けているのは、設計と施工管理。工程上、いろいろな専門業種が必要になる。大工、左官、タイル、クロス、ダクトや給排水、エアコンなど多岐にわたる専門家を組み合わせていく中で、そういう専門業的なものが会社の中にあるといい。特に電気、水道関係の職人、大工は社内に置きたい。

2つ目は、住宅など人が住む環境にも手を出せないか。
お店とオフィスを造っているが、お店は人が住まない環境で、建て替えサイクルも早いので残らない。
住宅は造ったら3,40年は残る。お客様が毎日楽しみに帰ることができる家づくりは面白い。事業戦略というより夢だと思っている。

<取材・文/ゲートプランニング 堤 由里恵>