株式会社アシスト・ワン 代表取締役 小林淳一氏

YMOとの出会いがその後の人生を変えた!

スーパーカーブームだった子供の頃、株式会社アシスト・ワン 代表取締役 小林淳一氏は、フェラーリに憧れて「社長になる!」と、決心した。その決意は、大人になっても揺らがなかった。

1967年名古屋生まれ。生まれてまもなく日本料理の調理師だった父の仕事の都合で、小田原に転居してきた。
幼少期から、興味があるものに集中するタイプで、反面、それ以外のことにはほとんど関心がもてなかったという。

国府津小学校3年生の時、少年ジャンプに掲載された「サーキットの狼」(池沢さとし作)の影響で、空前のスーパーカーブームが到来すると、小林少年もすぐに夢中になった。親戚から借りたカメラを片手に、当時は壁がなかった西湘バイパス脇でスーパーカーが通り過ぎるのを一日中待った。
中でも、好きだったのが、イタリアの名車フェラーリである。
いつか、乗ってみたい!当時、父は「飲む・打つ」を地で行くような人だった。
サラ金の取り立てが来る度に、小学生の小林少年が「お父さんは今、居ません。」と、いつも対応するような状況で、お金にはずっと苦労している家庭だった。
どうしたらフェラーリ乗れるのだろうかと考えた小林少年は、「大人になったら社長になる!」と、家族に宣言する。

やがて5年生になると、今度はブルートレインブームがやってきた。それにも夢中になった。
時刻表を眺めては、旅行気分に浸った。
松本清張の「点と線」など、時刻表を使ったミステリー小説のトリックにものめり込んだ。
「今で言う、オタクですよね。」と、笑う。

YMOとの出会いがコンピューターに夢中になるきっかけだった

株式会社アシスト・ワン 小林社長

地元の国府津中学校に入学すると、親しい先輩から「これ、聞いてみろよ。」と渡されたのが、YMOの曲が入ったカセットテープだった。
小林少年に衝撃が走る。どうやってこの音楽を作っているのか。
コンピューターを使った音楽に、瞬く間に夢中になった。コンピューターを使えば、楽器を弾けない自分にも、感性さえあれば曲作りができる!色々な音色を作り出せる!しかし、コンピューターは高級品で、まだ個人で所有する時代ではなかった。
そこで、今度は音を作り出すためのプログラミングの本を読みあさった。

「でも、割と早い段階で、自分には向いていないと諦めました。実は、同業であるIT企業の経営者のほとんどがプログラマー出身なのに対し、わたしはプログラミングができません。もちろん基礎的な知識はありますが・・・。 

『コンピューターは何かを実現するための道具である。』と、坂本龍一さんは語っていますし、スティーブ・ジョブズもプログラマーではないですしね。
何かを作りたいと思うことが大事な部分であって、作るのは自分でなくてもいい。作れる人に頼めば良いんです。」

当時からコンピューターを使えば、人間がやらなくてもコンピューターが自動でやってくれる、と言うことに興味を覚えていたという。
作ることよりも、何かが実現できることに面白味を感じていた。すでにIoTに関心が高かったのである。

お金に苦労をしながらも、バンド活動をした高校時代

その後、平塚西工業高校の機械科に進学したのは、仲の良い先輩からバンド活動をしようと誘われたからだった。
「実は、行きたい学校ではありませんでした。」と、笑う。

音楽活動三昧だった高校時代。YMOやデュラン・デュランなどのユーロ系バンドのコピーをした。中でも、坂本龍一に憧れ、独学でキーボードを演奏した。
さらに、自分でオリジナル曲も作った。

「鍵盤楽器の中ではピアノが一番好きです。でも、習ったことはありません。
数年前に一度、『大人のピアノ教室』の体験入学にチャレンジしたことがあるのですが、その時に弾きたい曲の楽譜を持参してくださいと言われたので坂本龍一さんの楽譜を持参したところ、まずは簡単にアレンジされたものをと言われ、弾く気が一気になくなりました。
弾きたいのはそれじゃない、ってね。こだわりが強すぎる。」結局、体験入学も途中でやめました(笑)

この頃、車やコンピューター、電車に対する思いも、子供の頃と変わらぬ情熱で続いていた。

「電車のデッキと呼ばれる、幌みたいなものに囲まれた、走行中揺れる連結器部分に乗るのが好きでした。
あと、行き先表示板。手で差し替えを行う、鉄板の行き先表示板が欲しかった。方向幕に変わる以前の話です。」

だが、その一方で、家庭環境は相変わらずかなり酷かった。
楽器はもちろんのこと、高校進学さえも、親からは金銭的な理由で反対された。
そこで、学費、定期代や昼食代、さらには修学旅行積立金も、アルバイトを3つ掛け持ちしてまかなった。
それでも足りずに、夏休みは真鶴のペンションに住み込みでアルバイトをして稼ぎ、なんとか高校を卒業した。

「とにかくお金に苦労をしたので、普通にゆとりある生活をしたかった。
フェラーリへの憧れも、今思えばそこから端を発していたのだと思います。
単純に、社長になって、お金に困らない生活をしたかっただけなのかもしれません。」

電車で看板を見て、直談判をして就職 Macと運命的に出会った!

株式会社アシスト・ワン 小林淳一氏

高校卒業後に選んだ進路は、コンピューター関係の会社だった。音楽で食べていけるスキルはないと自身を判断した。
当時はまだソフト開発会社などあまりなかった時代である。当然、学校の就職課にはコンピューター関連会社からの求人などなかった。
ほとんどが工業地帯からの求人ばかりだった。だが、工業高校の実習の時のように、工作機械を操作する作業はどちらかと言うと苦手で嫌だった。

そこで、通学時に電車の中から見えるコンピューター関連の会社の看板を頼りに、アポ無し訪問を行い、社長に直談判をした。キヤノン販売の販売店である「株式会社さんすい」である。当時はPC-9800シリーズと言うパソコンやワープロが出始めた時代である。その会社でもオフィスオートメーションを看板に掲げていた。

突然高校生の訪問を受けた社長は、さぞかし驚いたことだろう。だが、小林氏の熱意にほだされ、社長は後日改めて行った形式的な試験だけで採用を決めてくれた。
社内にはプログラマーも数名在籍していたが、小林氏が配属されたのは複写機のサービスマンであったが生来、好きなものはどんどん人に勧めたい性分である。
コンピュータや世に出始めのワープロ等の製品が面白くて、ついつい訪問先のお得意様に勧めてしまう。
その様子を偶然社長に見られ、入社翌年には営業に転属することになった。

そんなある日、晴海の見本市会場(現・ビッグサイト)で開催されたビジネスショーでマッキントッシュ(Mac)に出会う。
Macの画面の中にカセットテープが映し出され、マウスで再生ボタンを押すと音楽が流れてきた。たちまちMacの虜になった。

すると、半年後にはMacの販売をメインにする会社「株式会社湘南テクノ販売」に転職する。
またしても、飛び込みでMacに対する思いを熱く語り、売り込んでのことだった。
まだ、Macが世間にあまり普及していない頃のことである。
当時Macを使用しているのは、デザイナーやDTP関係者と、学会発表をする医師ぐらいだった。
そして、ここでも小林氏が配属されたのは営業だった。NTTの研究所(厚木)や東海大学医学部などを担当していた。

Macはやりたいことを直感的にできるところが好きだという。
自社の仕事上ではクライアントに合わせてウインドウズを取り扱うことが多いというが、今でも、大のAppleファン。
自社の社員には、iPhone、iPad、Mac、Apple Watch一式を支給し、使用を義務化するほどのこだわりようである。

日本を代表するトップアーティストK.Kさんの個人事務所のスタッフになった

やがて、転機がやってくる。当時、小林氏はバンド時代の先輩から頼まれて、中目黒にあるK.KさんのプライベートオフィスにMacを納品していた。
時代は、音楽と映像をミックスして提供するマルチメディアブームまっただ中。
事務所の社長からコンピューターに詳しい人材が欲しいと声をかけられた。

ちょうど次のステップに進みたいと考えていた小林氏は、新たな世界に飛び込むことにする。
ところが、入社してみたら、主な仕事はK.Kさんの音楽活動やプライベートのサポートだった。
スタッフとして、ほぼ毎日のように行動を共にし、TV出演、CM撮影、ライブ、レコーディングの現場に立ち会う毎日だった・・・。

一方で、世の中は、インターネットブームに突入していった。渋谷のインターネットカフェに、仕事終わりに通う日々。
当時、渋谷はシリコンバレーをもじって「渋谷バレー」と呼ばれていた。
その頃のインターネットカフェは個室形式ではなく、オープンスペースにコンピューターが置かれ、若き日の堀江貴文氏や「株式会社サイバーエージェント」の藤田晋氏など、コンピューター好きが出会いを求めて集まってきていた。
小林氏もそこに入り浸るようになり、益々インターネットの魅力に惹かれていった。

音楽家としては勿論、人生の先輩としてもK.Kさんを今でも尊敬してしますし、大好きなアーティストでもあります。普通では経験出来ないような体験を沢山させて頂いた感謝もすごくあります。
しかし、自分が音楽業界で働く事には違和感もありました。
そこで、入社3年後にはまた転職することになりました。K.Kさんの事務所を退職して25年経ちますが、今でも仕事を通じ、お付き合いを継続させて頂けている事に本当に感謝しています。」と、語ってくれた。

子供の頃の夢を叶え、35歳の誕生日に社長に!

その頃、小田原のソフト開発会社「株式会社パトナ」がインターネットのプロバイダー事業を始めた。
前職である「株式会社湘南テクノ販売」時代の顧客だった方が独立して始めた事業で、小林氏はそこに参加を決める。

担当したのはインターネット導入やシステム開発を企業に勧める営業業務。時代は、Windows98が発表される等、インターネットの創成期だった。

南テクノ販売の社員だった頃、スティーブ・ジョブズの存在を知り、その伝説的な話に心酔していた小林氏は、当時コンピューターの素晴らしさや未来を伝えるのが使命だと思っていたと語る。
だから、商品を販売すると言うよりも、「これをやったら、こういうことが起きる」ということを話すのが好きだった。
いわば、コンピューターの伝道師だったのだ。

だが、5年ほど勤務した後、35歳で独立する。「社長になる!」いう子供の頃の夢をついに実現したのである。
Macとの出会いがコンピューター関連事業の起業に結びついたのは言うまでもない。

実は、「株式会社パトナ」入社時に、すでに社長に35歳で起業することを宣言していた。

最初は一人で、35歳の誕生日当日に、K.Kさんが所有するビルの一室を借りて起業した。
最初は自宅でやっていこうと考えていたが、事務所社長から「やるならちゃんと事務所を構えたほうが良い」とのアドバイスを頂き、格安で事務所を貸して頂いた。
そして、まずは一人でもできるパソコンおよび周辺機器の販売や、ネットワークを組む仕事をメインに飛び込み営業をした。
相手にしてもらえない事ばかりだったが、好きなことをやっているので、苦労は感じなかった。

YMO公認のトリビュートバンドを結成

アシスト・ワン 小林氏 YMOトリビュートバンド

2018年カルッツ川崎で開催した単独ライブYMO 40周年 Tribute FAN Event 「1980 World Tour Again」

結婚したのは、湘南テクノ販売に入社した23歳とき。バンドのライブをよく観に来ていた中の一人だったという。

小林氏は、高校時代より継続してバンド活動をしているが、2005年よりYMOのトリビュートバンドとして本格的活動を開始している。
YMOと同じ機材、同じ衣装、同じステージを作って開催する年1回のコンサートには、全国からYMOのファン800人余りが集結する、知る人ぞ知る人気バンドなのである。

YMOのメンバーは3人だが、後ろにサポートメンバーが3人いる。その本家本元のYMOのサポートメンバーで、マニュピュレーターの松武秀樹氏も、小林氏の熱意に心を動かされて15年前からライブに参加してくれている。

今年はコロナで断念せざるを得なかったが、一昨年は、収容人数2,000人の「カルッツ川崎」で単独ライブを開催した。

「うちのバンドはYMOのメンバーから公認されているんです。坂本龍一さんとはあるきかっけで知り合いになりまして、YMOライブの際に坂本さんから依頼があり、私の楽器を提供したこともありました。」

すでに趣味の域を超えた、本格的な音楽活動なのである。

「YMOは海外でのコンサートが多かったため、日本でコンサートを聴く機会に恵まれた方は、実はかなり少ないのです。だから、トリビュートバンドのコンサートでも全国のファンが来てくださって喜んで下さいます。」と、小林氏。
中心に再現しているのは、1980年のライブ。

株式会社アシスト・ワンは、ソフト開発会社だが、このライブの企画運営も行っている。

●Youtube:YMO 40周年 Tribute FAN Event 「1980 World Tour Again」 OPENING〜

目標にするのは、全員がプロデューサーの会社

「企画・立案することが楽しくて社員にも『全員がプロデューサーになれ!』と話しています。IT関係の仕事で言えば、お客様のIT環境をいかにプロデュースするかが大切だと考えています。実際にやるのは自分たちでなくてもいい。

例えば、CM制作の際、CMのプロデューサーがいてお客様と何をやりたいかを決めますが、実際に制作するのは制作会社です。それと同様に、自分たちはITのプロデューサー集団でなくてはいけないと思っています。例えば、社内のバーベキュー一つとっても、それはイベント企画です。
社内のイベントですらプロデュース・企画できなくて、なぜお客様をプロデュースできるのか、ということです。プロデュース能力の中に大事な要素が全部詰まっていると考えています。

カテゴリー的には当社はソフト開発会社ですが、実はそこを目指しているわけではありません。

担当者によっても、お客様の会社のIT化の方向性が変わってきます。当社は、企業の競争力や利益を向上させるための手伝いをしている会社なのであって、そのツールの一つとしてITがあるのです。」

現在は、ソフト開発、パソコンの販売、周辺機器の販売、ITに関する相談・サポートなどをメイン業務にしている。今期で19期目を迎えた。前年度の売上は3億円。社員はパートを含め17名。コロナ禍にあっても、エンジン全開だ。

お客様とのコミュニケーションを大切にしたい

アシスト・ワン 小林社長

現在、19歳の娘さんが一人。年に1回は2人だけで旅行をするのが、小林家のルールなのだという。

同友会には同業者の紹介で、8年前に入会した。それ以前は、どこの会にも入会していなかったが、今は色々な人との出会いが財産になっていると感じている。第46期経営指針を受講し、現在小田原支部長も務めている。

だが、コロナ禍を経て、次に目指す方向性を見直すようになった。都内のIT会社はテレワークが進み、事務所などなくてもいいという風潮になってきているが、小林氏は顔と顔をつきあわせたコミュニケーションを大切にしていきたいと感じている。
そして、そこから生まれてくる物をどう生かしたらいいのかということを、今は考え中だと言う。

そのためには、社員の一層の充実も重要だ。起業したときには、ノジマのパソコンコーナーに勤務している人を店頭でスカウトして社員に迎えた。
それ以来、驚いたことにパートさん以外に社員を公募したことはないと言う。

「面接しても能力はよくわからないので、私がいいなと思った方をスカウトして、社員に迎えています。
特に、ノジマやヤマダ電機にはパソコンマニアの技術者が働いていて、実力は折り紙付き。
今、『即採用!』と書かれた即採用カードなるものを印刷会社に依頼中です。」と、笑う。
「飲食店やサービス業でこの人良いなって思う人に渡したら、もしかしたら転職してくれるかもしれないしね(笑)」 発想が独創的なのである。

IT企業でありながら、世界を相手にする企業になるという夢よりは、個別の企業を大切にし、共に歩むことを信条にして、他のIT企業とは一線を画したスタイルを貫きたいのだと、目を輝かせた。
バックヤードには優秀なプログラマーが揃い、万全の体制を組んで、業績を上げ続けている。

株式会社アシスト・ワン
小田原市寿町2-10-10 2F
TEL:0465-43-7731
FAX:0465-43-7732
https://www.assist-one.jp/

〈取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林 正幸〉