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神奈川県中小企業家同友会
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株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏

警察官から、紆余曲折を経て起業

同友会と出会って、経営が楽しくなった

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏

細身で穏やかな笑顔からは想像がつかないが、元警察官。しかも、ビルメンテナンス業の会社を起業したのは、すでに47歳になってからだと言う。そう聞いただけでも、これまでの人生に何があったのかと尋ねてみたくなる。
株式会社エアークラフト 代表取締役の豊田一也氏にお話を伺った。

父は国鉄マンで、転勤族だった

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏
幼少期は北海道で育った

横浜市南区でビル空調設備の清掃保守を行う「株式会社エアークラフト」を経営する豊田氏が生まれたのは、北海道深川市だった。1963年(昭和38年)に国鉄(現・JR)に勤務する父と、元看護師だった母の第二子として誕生し、八歳年上の姉がいる。

生まれてすぐに朱鞠内(しゅまりない)に引っ越し、三歳までを過ごした。父は転勤族。旭川管理局の所属だったので、その後は網走に、そして、幼稚園に入園するころには留萌(るもい)に移り住んだ。

道北とあって、冬には3~4mもの雪が積もった。家の屋根から下ろした雪は、家屋の脇に積み上げるのが常だったから、雪下ろしでできた雪山でボブスレーやスキーをして遊んだ。

学級委員なのに、いじめられっ子だった

人口25,000人ほどの小さな町にある地元の公立小学校に進むと、夏は学校の裏山で虫取りに夢中になった。

「キリギリスやクワガタを採って遊びました。でも、道内には蝉やカブト虫はいませんでしたから、夏休みに内地(本州)に旅行に行った友達が、夏休みの宿題に蝉やカブト虫の標本を持ってきたのが、本当に羨ましかった!」と語る。

小学生の頃は、両親の期待に応えるように学級委員に立候補した。その一方で、いじめにも遭ったという。
「理由はわかりませんでした。シカトをされ、物品の購入を要求されました。」

それでも、小学校4年の誕生日には、親にねだっても買ってもらえなかったガッチャマン戦隊の人形を、友達が皆で少しずつお金を出し合ってプレゼントしてくれたこともあったそうだ。

一方で、近くの海でよく釣りをした。ホッケやチカ(東北以北に生息するキュウリウオ科のワカサギに似た海水魚)が面白いように釣れた。あまりに釣れすぎて、家に持ち帰ると母が困惑するほどだったという。サビキで釣ると、一度に5~6匹釣れたというから驚く。

サッカー部と吹奏楽部を掛け持ち

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏

留萌中学校に進学すると、吹奏楽部とサッカー部を掛け持ちした。実はサッカー部に入りたかったのだが、近所に住む仲の良い先輩が吹奏楽部で、誘われて入部した。

「サッカー部ではバックス(ディフェンス)でした。ゆる~い部活だったので、掛け持ちができたのです。一方、吹奏楽部は吹奏楽コンクールの北海道大会に進出するほどの学校だったので、顧問の先生も厳しかったですね。
ホルンを吹いていたのですが、リズムや音程が外れるとドラムのバチでよく叩かれました。
それでも、中学生活は本当に楽しかったから、転校などしたくなかったのですが・・・。」

父の転勤に伴い、中学3年の春、網走第二中学校に転校した。新しい学校にすぐにはなじめず、ここでは海釣りをする日々を過ごしたという。

初めてできた彼女とインベーダーゲーム

やがて、北海道立網走向陽高校の普通科に進学すると、サッカー部に入部した。

「当時は、野球の次にサッカーが人気でしたから、サッカー部に入ってモテたかったのかもしれません。初めて彼女ができました。もっとも小さな町でしたから、一緒に歩くと目立つので冷やかされる。それが嫌だから、喫茶店で一緒にインベーダーゲームとかしていました。」と、笑う。

だが、高校2年生の時に、またしても父の転勤で転校する。

「本当は下宿して網走に残りたかったのですが、下宿が見つからず、仕方なく転校することになりました。」

転校したのは、東大への進学者も輩出する進学校として知られる北海道立名寄高校だった。リーゼントの不良とまじめな学生がお互いをリスペクトして溶け込む、ユニークな学校だったという。文化祭では、青森のねぶた祭りのように、クラス毎に巨大な灯籠(=ねぶた)を作り、山車に乗せて市内を練り歩いた。制作に2ヶ月もかかるから、クラスは団結し、高校生活をエンジョイする日々が過ぎていった。

進路がきまらない!そして、神奈川県警へ

しかし、進路を考える頃になって焦った。 一緒に遊んでいた友人たちは、進学校ということもあり、勉強もきちんと両立していたことがこの頃になって初めてわかる。何も考えずに遊んでいた豊田氏は、大学を一校受けてはみたものの不合格で、就職志望となった。浪人することは念頭になかったという。

志望先は公務員に絞った。だが、国鉄の運転士を志願し、不合格に。次いで、釧路消防局を受験し、またしても不合格になった。そこで、今度は北海道警察を受験したが、それもうまくいかなかった。八方ふさがりである。

どうしようかと落胆しているところに、なんと神奈川県警から二次試験の案内が届いた。神奈川県警など受験していないはずだった。ところが、北海道県警を受験するときに第二希望を記入する欄があったことを思い出した。そこには、警視庁、神奈川、埼玉、千葉、大阪から選択するよう書かれていたのである。

実は豊田氏が中学生の頃、日本テレビ系列で「俺たちの勲章」というドラマが人気を博していた。これは、中村雅俊と松田優作主演の刑事ドラマで、横浜にある「相模警察」という架空組織の捜査一係が舞台となっていた。このドラマが大好きだった豊田氏は、この時迷わず第二希望に「神奈川」を選択していたのだった。

そして、当時の豊田氏には、もう選択の余地はなかった。神奈川県警の第二次試験を受験し、今度は見事に合格した。

同期の半分は元ヤンキーだった

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏

1981年(昭和56年)、北海道から遠く離れた神奈川県警に就職した。最初の1年間は警察学校で訓練を受けることになる。遊びたい盛りの年頃にも関わらず、朝6時起床、夜10時就寝の生活が始まった。
当初1ヶ月間は外出も禁止だった。その後も、土曜日は13時から、日曜日は9時から外出が許可されたが、門限は20時である。外泊は禁止で、県外に出るときには、東京であっても届け出が必要だった。

「肉体的にもきつかったですが、精神的にはもっときつかったです。しかも、同期の半分ぐらいは元ヤンキーでしたから、ストレスが貯まると、ケンカも絶えませんでした。
当時、頭髪は全員坊主だったのですが、外出時はスーツと決められていました。その格好でマリンタワーや山下公園に行くのです。また、教場は35人でしたが、1人でもできない人がいると連帯責任でした。だから、ランニングばかりしていましたね。」

現在のシステムとは異なるのであろうが、想像を絶する厳しい世界であることが窺える。

機動隊の訓練で膝を負傷して入院

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏
水上警察書勤務の警察官時代

警察学校での訓練後、初めての勤務地は、横浜水上警察署だった。
意外にも、神奈川県警では赴任したくない“ワースト3”に入る勤務地だったという。陸地が少ないので住民が少ないから、交番での通常の実務が覚えられないだけでなく、水死体の処理が多いからだという。
勤務は三交代制だったが、年間6~7体も水死体を取り上げ、司法解剖にも立ち会った。そして、2年目からは警備艇に乗船した。

三年間横浜水上警察署に勤務した後、機動隊に転属になる。通常は全員が機動隊に1年間配置されるのだそうだ。最初の1ヶ月間は朝9時から17時まで新隊員訓練を受ける。
ジュラルミンの楯を持ち、小手やすね当て、防弾ベストまで装着すると、装備は30kgにもなる。それらを装着して基本訓練や集団訓練を重ねるのだ。

「本当にきつかったです。そんなある日、訓練中に両膝を大けがしてしまいました。ひざの内側の『棚』と呼ばれる部位を負傷し、立てなくなってしまったのです。 すぐに病院に運ばれ、緊急手術をすることになり、4~5ヶ月間入院することになりました。」

公務災害と認定されたが、入院期間が長かったために、その後休職扱いになった。すると、先輩達から「復帰後、しごくから覚悟しろ。」と脅され、恐怖心でいっぱいになり、退院するとすぐに退職することに・・・。今で言うところのパワハラである。当時はそんなことが普通に横行していたようだ。

一方、横浜水上警察署勤務時代に、交番裏の理容店に勤めていた奥様と知り合い、お付き合いが始まっていた。
そこで、退院後は数日間彼女の実家に身を寄せ、アパートを探した。そして、退職の翌年(1985年)5月に結婚している。

警察から民間企業へ
転職先はブラック企業だった

ところで、当時はトレンディドラマ全盛時代である。厳しい警察官時代に、次第に民間企業への憧れが膨らんでいた。
当時はバブル景気まっただ中である。求人している会社は山ほどあった。そこで、まずは中堅不動産会社に就職し、マンション販売の仕事に就いた。社内でひたすら電話営業をし、終業時間後は飛び込み営業を深夜まで続けた。嫌気がさし、1ヶ月で退社した。

次に、先物取引の会社に就職した。ここでも毎日が深夜まで電話営業だった。休みは1日もなかった。しかも、先輩や上司からは顧客が自殺した話ばかり聞かされた。とてつもないブラック企業で、3ヶ月で退社した。

今度はOA機器の販売会社に就職した。コピー機やファックスのデモ機を車に積み込み、港北区新羽町や緑区、東京都大田区の町工場に飛び込み営業をした。契約がとれない日は深夜2時まで営業に回ることもあった。
この頃には結婚していたので、必死だった。何と月収50万円(手取り)を稼ぐほど売り上げを伸ばしたこともあり、社内で表彰されたこともあった。だが、売上の浮き沈みは大きかったので、収入は安定せず、1年半で退社した。

空調機洗浄の仕事と出会う

すると、とある縁で知り合った貨幣処理機・たばこ自動販売機メンテナンスの会社の社長から、子会社であるOA機器事業部に誘われ、入社することになる。当初は営業として入社したが、1年後にOA機器事業部が廃止となり、本社の事務職に移動になった。そこでは、技術業務(伝票作成、部品出庫など)や経理、人事業務を担当した。

実は、この会社はこの他に空調機器洗浄事業部も展開していた。しかし、社長が亡くなると、空調機器洗浄事業部を別会社にすることが発表された。その際、豊田氏も転籍を命じられる。そこは、社員わずか5名の会社だった。そこで、今度は現場作業をすることになる。

しかも、事業部長から社長となった人物は、ワンマンだった。その上、金銭的にもルーズな人だったから、会社の金庫は自分の財布と考える様なところがあった。当然、会社の経営は右肩下がりになっていった。そこで、豊田氏はまたしても2010年(平成22年)に退社を決意する。

資本金200万円で起業を決意した

しかし、この時すでに豊田氏は47歳になっていた。すでに高度成長期も終わり、再就職には不安があった。

退職金もなかったから、前社から洗浄機材の一部を引き継いで、同業の会社を創業することにした。すると、前社の社員のうち3人が付いてきてくれた。さらに、取引先に挨拶に行くと、それまで受注窓口として働いていた豊田氏に、引き続き仕事を出すと言ってもらえた。ひと安心である。

それでも、資本金はわずか200万円しか用意できなかったから、自宅近くの格安物件を借りることに決めた。地元の葬儀屋が倉庫として借りていた物件だった。狭くて、社員それぞれの机さえ置くことができず、ミーティングテーブルで対応した。前社の取引先である元請け会社からの発注は継続していたので、中古の作業車を購入し、すぐに事業を開始した。

失態続きのスタート
そして、同友会と出会った!

しかし、経営のことなど何もわからない出発だった。だから、その後次々に事件が発生する。

2013年(平成25年)、開業後3年目のこと。空調機の洗浄中に塩酸が漏洩して、床養生の下に染みこんでしまった。当然、機械室の床の塗装が変色してしまう。それなのに、失敗を隠し、顧客はおろか、元請け、会社にも報告せず、社員が撤収してきてしまったのである。当然顧客からの厳しいクレームを受け、再発防止策を提出して、何とか乗り切ったが・・・。その後も次々と失態が続き、とうとう半年間の期限付き発注停止処分を受ける。その間に新規参入業者も出てきて、経営の不安は増大していった。

その頃、現状維持の意識が強く、すっかりワンマン経営に陥っていた豊田氏は、ここへ来てようやく、このままではいけないと思い始めた。そこで、経営に関するセミナーに行き始めたのである。

すると、思いがけず、面白く、勉強になった。その時、セミナー会場で出会ったのが「有限会社オートトレーディングロック」代表取締役の岩崎貴裕氏である。「同友会という会があるよ。」と、教えられ、後日インターネットで検索して同友会のホームページを探し、オリエンテーションに参加すると、すぐに入会を決めた。2016年(平成28年)のことである。

実は、その前年より同級生とのSNSを通じて、多くの同級生が会社経営をしていることを知った。彼らは経営理念を掲げ、積極的に事業拡大をしていたのである。その際、北海道同友会の話も聞いていた。

「色々な業種の経営者の成功例や失敗例が聞けて勉強になるよ。」

その言葉にも背中を押されたのは、言うまでもない。2017年(平成29年)には、経営指針第50部会を受講した。

飛行機に乗ることが好き

経営指針受講時は懐疑的だった社員だが、社長の意識が変化していくと共に、社員の意識にも少しずつではあるが変化の兆しが見えていった。作業報告もPCを使ってその都度されるようになり、近頃は仕事に対する意見も積極的に出されるようになってきている。
今後の抱負を豊田氏に伺うと、「社員に事業承継してもらいたいと考えています。」という意外な返事が返ってきた。

まだ事業承継には早いのでは?と問うと、「もう孫がいるんですよ。」と、笑った。娘が2人。2022年7月に5人目の孫が生まれたばかりで、孫達からは「おじじ」と呼ばれているそうだ。

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏
孫は2022年7月に1人増えて、5人。孫たちからは「おじじ」と呼ばれている。

家庭では、娘達が嫁いで夫婦2人の生活となり、休日はもっぱら奥様の買い物に付き合っていると語るが、マイブームは日本酒で、自宅から徒歩5分の社内の冷蔵庫に日本酒を保管している。お気に入りは、秋田・木村酒造の「角右衛門」。まだまだ飲んだことがない日本酒も多く、新たな日本酒の発掘が楽しみだと語る。

実は、コロナ禍前は飛行機に乗ることが趣味だった。トランジットで数カ国を回るのだが、旅行ではなく飛行機に乗ること自体が目的なので、航空会社のラウンジで待ち時間を過ごし、空港から出ずに次の国へ向かうのだそうだ。せっかく現地を訪れながら、ちょっともったいない気もするのだが、それが楽しいのだというから、色々な楽しみ方があるものだ。

一方で、消防団の活動を初めて18年目になる。今年は3年ぶりに大会が開催され、南消防団第4分団として参加し、優勝した。地域貢献にも余念がない。

株式会エアークラフト 代表取締役 豊田一也氏
2022年、3年ぶり開催された消防団の大会で優勝した

企業情報

株式会社エアークラフト
本社所在地:神奈川県横浜市南区中島町2-30
TEL:044-334-8415
URL:http://www.air-craft.co.jp

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>