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スプレッド株式会社 代表取締役 田利 純氏

群れを嫌い、「成り上がり」を目指す

スプレッド株式会社 田利純氏

人なつこい笑顔からは想像できないが、人と群れるのが嫌いなのだという。熾烈を極めるリサイクルトナー業界で頭角を現し、今では取引企業は大小含め64,000社を超えた。それが、田利純社長が率いるスプレッド株式会社である。今年度より、横浜北支部の支部長を務めている。

一人で見る景色に価値がある

スプレッド株式会社 田利純氏
秋田で過ごした幼少期

19xx年2月、秋田県秋田市で印刷会社に勤める父と自宅で内職をする母の元、二人兄弟の次男として生まれた。近くには十條製紙の工場があり、紙をすく独特の匂いが漂う町だったという。桜田淳子の生家前を通って通学していたが、だからと行って特別な交流があったわけではない。しかし、東京へ憧れに近いものを抱くようになったのは、その影響もあったのかもしれない。

小学校1年生の冬に秋田市郊外の上北手に引っ越した。この頃から、母は飲食店で働き始めたので、田利少年はカギっ子になった。1学年七クラスあったマンモス校から、いきなり1学年1クラスしかない小規模校への転校だった。近くの山で遊んだり、友達とボードゲームに興じたりしたが、「人の言うことは聞かないガキ大将でした」と、笑う。転校生だったため、体操着もメロディオン(ピアニカ)も自分だけ違うものを持っていたため、自分は特別な存在なのだと思うようになったのだそうだ。

「この頃から、人と同じになりたくないという意識が芽生えたように思います。『一人で見る景色こそ価値がある』と考えるようになりました。」

カギっ子時代が長かったこともあり、今も人と群れることが嫌いで、一人で映画館へ行って新作映画を観たり、美術館や博物館を訪れたりすることが好きだという。

「映画というのは、大人が2時間たった2,000円弱で遊べる。こんな安価な遊びはないですよね。しかも、色々な景色や文化、考え方にも触れることができるから、クリエイティブな力も培えます。」

しかし、そんな田利少年も、4年生になると野球を始めた。やがて、チームの要であるキャッチャーになり、そして、キャプテンになる。その上、6年生になると児童会会長も務めている。我は強いが、リーダーシップもあったようだ。

他人より長く在籍し、大学を卒業

市内の公立中学校に進学すると、そこは1学年11クラスもある、東北随一のマンモス校だった。とりあえず野球部に入部するも、中学2年で退部している。当時は、校内暴力があちこちで頻発していた時期。田利氏が進学した中学も例外ではなかったという。ちょっとしたヤンチャもしたようだ。

やがて、市内の高校に進学するが、この頃の田利氏は勉強があまり好きではなかった。だから、アルバイトに精を出し、16才の時にバイクを買ってツーリングを始めた。行き先は、男鹿半島や田沢湖。

それでも、進路を考える時期は否応なくやってくる。親戚は公務員が多かったが、将来を自分で計算できてしまうような進路は、どうしても魅力的に思えなかった。だからといって、勉強をしていなかったので、すぐに大学に進学することも難しかった。

しかし、もっと勉強して、やりたいことを見つけた時にはそれをやれるようにしておきたいと考えた。この時、初めて「成り上がりたい」と思ったという。「自分の力で築き上げたいと強く思ったのです。」と、田利氏。それには、秋田のマーケットは小さいと感じ、上京することを決意した。

求人誌をめくって入社したのは、東京都杉並区にある音響機器の販売会社だった。18才の時に車の免許はすでに取得していたので、車で営業をして回った。

スプレッド株式会社 田利純氏
小学校卒業式に両親と共に

そこで、成り上がりを目指し、満を持して大学に入学した。文学部史学科だったが、やがて経済地理学にスライドし、卒論には「東京一極集中のメカニズム」をテーマに書いて卒業している。

マイケル・ジャクソンと握手した!

その後、文京区にある出版社での一年間のアルバイトを経て、港区のOA機器販売会社の正社員となった。パソコンが普及し始め、プリンターやリサイクルトナーの販売が広まり始めたころである。会社は波に乗り、FC展開を始め多店舗展開するようになる。そして、田利氏は役職になり、台湾や韓国、ラスベガスなどで開催される展示会に出張するまでになっていった。

「相変わらず群れるのが嫌いだったので、海外出張しても自由時間は一人行動が多かったです。ラスベガスのショッピングモールを一人でブラブラしていたときに偶然出会ったのが、マイケル・ジャクソンでした。もちろんSPに囲まれていたし、大勢のファンにも囲まれていたのですが、先回りしてエスカレーターを降りる所で待っていると、一瞬ガードが外れた時間があり、握手をしてもらうことができました。この時、一人で行動することの大切さや、思い立ったらすぐに行動することの大切さを痛感しました。」

誕生日は長島茂雄と同じ

スプレッド株式会社 田利純氏

「実は、私は誕生日が長嶋茂雄さん、志村けんさん、アントニオ猪木さん、石川啄木さん、志賀直哉さんと同じ日なのです。どなたも芸術肌で、感性を大切に生きている方ですよね。私も、自分の感性を大切にしたいので、人と合わせるのが少し苦手です。」

36才になると、渋谷にあるシステム開発会社に移籍した。インターネット販売をしたいと考えたからである。

「その会社の常務と知り合いだったのですが、偶然、そこの社長も秋田出身でツーリングが好きなことから意気投合し、とんとん拍子に移籍することが決まりました。」

しかし、その会社はシステムをつくる会社で、ネット販売に進出することはなかった。そこで、2007年、インターネットビジネスの可能性を試したいと、独立起業することになる。田利氏が39才のときである。

ノストラダムスの大予言の最終日に入籍

この頃、すでに田利氏は所帯を構えており、二人のこどもがいた。奥様と知り合ったのは、友人からの紹介だったという。30歳の時に結婚しようと考えたが、奥様が大殺界だったので翌年に伸ばしたと笑う。実際に籍を入れたのは、1999年7月31日で、「ノストラダムスの大予言」により人類が滅亡すると言われた月の最終日。絶対に忘れない結婚記念日なのである。

サラリーマンと結婚したはずが、起業したいと告げた夫に、長女を出産して半年しか経っていなかった奥様は、「私、社長夫人になるの?」と言って賛成してくれたそうだ。当初、勤めていたシステム会社の社長から出資の申し出もいただいたというが、「それでは会社員と変わらないから」と、断った。自分で舵取りをし、自分の感性を生かす会社をつくりたい。それが、独立したときの揺るぎない田利氏の思いだった。

リサイクルトナーをインターネット販売

2007年4月、「スプレッド株式会社」が始動した。当初はドコモ、au、ソフトバンクといった三大キャリアの公式求人サイトの代理店として出発した。しかし、当初は売上が伸びず、売上より自身の給料の方が高かったという。実は、起業したときに、「ダメならやめよう.」と思っていた。そろそろやめようかと思っていた矢先に、かつて勤めていたOA機器の会社が倒産し、民事再生法適用になったことを知る。
田利氏は、古巣の企業の領域には踏み込まないと決めていたが、その会社の倒産により、OA機器の取り扱いとリサイクルトナーの販売を開始した。これが、リサイクルトナーのインターネット販売サイト「トナー246」のスタートである。
ショッピングサイトの仕組みを利用してのスタートだったが、使い勝手が良いので、今もそのサイトを使っているという。意外と義理堅い人でもある。

2011年までは、毎日日付が変わるまで残業していたが、7月に雇用を開始。現在、リサイクルトナーを中心に、純正トナー、OA機器、純正インク、ノーブランドインクなどの販売も行っている。

そもそも、リサイクルトナーは1990年代から流通し始めたものだが、バブルがはじけ、企業が経費削減せざるを得なくなった頃に流通を広げてきた分野である。

田利氏が創業したのはバブル崩壊後の2007年だが、2008年にリーマンショックが起き、リサイクルトナーはさらに需要を広げた。現在、社員は五名。受注を受けてから仕入れ先に発注し、在庫を抱えないドロップシッピングという手法で、取引先は64,000社を超えるようになった。

新曲を覚えて大学生と交流し
時代の先を読む

スプレッド株式会社 田利純氏
5才から始めたスキーは今も現役

ところで、リサイクルトナーを使用すると機器が故障したときに修理の対象から外れると言われた経験は無いだろうか?スプレッド株式会社では、リサイクルトナーを使用した際の機器の修理代を補償しているという。また、インクの量を多めに入れ、リサイクルトナーは早く無くなるという苦情も回避してきた。実際には、リサイクルトナーを使用して機器が故障した事例はほとんど無いのだという。しかも、OA機器メーカーがリサイクルトナーを使用した機器の修理には応じないというのは独占禁止法に抵触しうるという判例もでているので、安心して使用していただけるようにもなった。それを追い風として、コロナ禍でも順調に売上を伸ばしている。

また、多くのユーザーとの直接取引を強みとする同社は、まだ公表はできないが、それを活用した新規事業も計画中だという。今後の発展も楽しみである。

「成り上がりましたね?」と尋ねると、「まだまだです!」と言う返事が戻ってきた。田利氏の野望は続きそうだ。

一方で、休みの日にはお子さんのサッカーの送り迎えをしたりと子煩悩なお父さんでもある。秋田で5歳から始めたスキーも現役だ。体を動かすことが好きで、20才前後にはヒップホップダンスもしていたという。

「10年ほど前より整骨院の先生に勧められて、毎朝ラジオ体操をしています。」と聞くと少し年齢を感じてしまうのだが、お酒が好きな田利氏は一人で飲みに行くと若い人たちとすぐに仲良くなり、一緒にカラオケに行くこともしばしばあるそうだ。

「大学生とも交流しています。忘れてしまったことを思い出させてくれるし、若者がやりたいことを知ることは、未来を知ることでもありますから。次世代のマーケットを知り、先取りをしたいと思っています。」

そう語る田利氏は、新曲を覚えて歌うのが好きなのだそう。因みに、今覚えているのは、バウンディ(Vaundy)とクリープパイプなのだとか。時代の先端をチェックすることも忘れない。これを武器に若者ともすぐに意気投合するらしい。

今はまだ「成り上がり」の麓
死ぬまで仕事をしていたい

スプレッド株式会社 田利純氏

神奈川県中小企業家同友会への入会は2015年1月。異業種交流会で知り合った人に誘われて、すぐに入会した。翌年の4月には経営指針作成部会第48部会を受講している。

「100社あれば、100様の会社があり、成功がありますから、学びはずっと続きます。まだまだ、『成り上がり』の麓でしかありません。死ぬまで仕事をしていたいです。仕事が楽しくて、興味は尽きることがありません。
実は、大学に通うまでに1年間浪人していた時期があったのですが、喜怒哀楽があった方が人生は楽しいし、たとえ辛かったとしても生きているという実感がある。だから、忙しい自分が好きだし、自分でハンドルを切り、マーケットの評価をダイレクトに感じることができる仕事は、とにかく面白いと感じています。何事も自分の努力次第ですから、それを楽しみたいとも思っています。」

成り上がりを目指す人生は、まだ発展途上のようなのである。

企業情報

スプレッド株式会社
本社所在地:神奈川県横浜市都筑区中川中央2-5-13
TEL:045-620-2628
URL:https://www.toner246.com

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>