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神奈川県中小企業家同友会
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株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏

Jリーガーを目指したが、挫折して兄と起業
人が喜ぶ顔を見たくて福祉事業に参入した

株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏
株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏

常にポジティブで笑顔。それが、株式会社カラー 代表取締役の志田真人氏。しかし、その裏側には、Jリーガーを目指し、将来を嘱望されながらも怪我で挫折した壮絶な過去を持つ。

兄と創業した会社は試行錯誤の連続の後、同友会ベテラン会員のアドバイスでようやく軌道にのった。そして、2019年、就労継続支援B型事業所 株式会社カラーを設立し、現在4期目を迎えている。

小学3年生でサッカーを始めた
目指すはJリーガー

1983年、横浜市緑区で粉体塗装の会社に勤める父と専業主婦である母のもとに次男として生まれた。3歳年上の兄に憧れ、兄の背を追いかけて育った。

幼少のころから足が速く、かけっこはいつも一番。その一方で、楽器には興味が持てず、幼稚園のハーモニカ演奏ではいつも吹く真似をしていたと笑う。

小学校に入ると、野球を始めた。ピッチャーだった。しかし、兄がサッカーをしていたこともあり、3年生になるとサッカーに転向する。

「翌年にJリーグができた時期で、サッカー人気が高まってきたころでした。」

運動神経が良い上に、体が大きく身体能力が高かったので、4年生になるとすぐにレギュラーになった。目指すはJリーガー。憧れたのは、三浦知良である。

休み時間もグランドで野球をする子が多かった中、いつも一人でサッカーの練習をしていた。

「基本的に真面目なんです。」と、笑った。

株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏
8歳の時。兄と共に。

まだ中学2年なのにサッカー推薦が決まった!

地元の公立中学に入学すると、迷うことなくサッカー部に入った。クラブチームを選択しなかったのは、地元の中学校が県ベスト16にはいるほどのサッカー強豪校だったから。

しかし、その時初めてサッカーが楽しくないと感じたことがあったという。

「今までは、いつもチームのトップにいたけれど、中学の部活には先輩がいて、怒られるわけです。しかも、小学生までは1人でドリブル突破してシュートすればよかったけれど、中学生になるとパス回しが必要になってくる。けれど、僕がボールを持つとパスを出さないわけですから、怒られるんですね。」

とにかく練習をした。

「めちゃくちゃ負けず嫌いなんです。努力をして負けるのは仕方がないけれど、あきらめるのは好きじゃない。」

練習を重ね、どんどんサッカーがうまくなっていき、中学2年生の時にすでにサッカー推薦で高校が決まっていたというから驚く。特待生入学したのは、麻布大学附属渕野辺高等学校だった。Jリーガーも輩出しているサッカー強豪校である。中学3年の秋から高校の練習に参加し、Aチームの合宿にも参加していた。

父の会社が倒産
しかも、左膝外副靭帯・半月板損傷の大けが

株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏
高校時代はJリーガーを目指して活躍していた。

しかし、高校2年生の時、父の勤める会社が倒産した。その時、父は副社長だった。自宅を手放し、団地に引っ越した。

その後も、志田氏を不幸が襲う。その年の秋、雨が降りしきる横浜マリノス戦で、相手チームの選手の足が、志田氏の膝関節を襲い、関節が逆側に曲がってしまった。左膝外副靭帯・半月板損傷だった。全治6か月である。

その後も大事な試合が続く。手術をしたら、試合に出られず、高校生活が終わってしまう。医師にも監督にも手術を進められたが、手術をしない治療を選択した。痛む膝にテーピングをして試合に出た。

「僕は、入学試験の点数が過去最低だったそうです。それでも、サッカー推薦だったから入学できました。そこで、特待生だからこそ、試合に出て勝たなければいけないという思いがありました。それに、どうしても関東大会に出場したかったのです。関東大会で市立船橋高校を破ったのは、今でも自分の一番の財産であり、思い出です。」

実は、このころ、すでに大学2校のサッカー推薦がとれていたのだという。しかし、ケガをしたことで取り消しになってしまった。小学生から思い描いていたJリーガーの夢はここであえなく途絶えてしまった。

「でも、やり尽くしたと思っていました。サッカーをやめると、もう練習をしなくていいので、車の免許を取りに行こうと考えていたぐらいです。今でも、寒い日には膝が痛みますが・・・。」

高卒で就職したが挫折
その先にあった運命的な出会いとは

一方で、高校時代は人生で一番もてた時期だと笑う。

「他校の女生徒が出待ちをするほどでした。」
Jリーガーになれそうなほどサッカーが上手で、イケメン。それは、もてたことだろう。

しかし、サッカー推薦がとれなくなったことで、大学進学の道は閉ざされた。

「父の会社の倒産で、お金もありませんでした。進学校でしたので、就職する人はほとんどいない中、高卒で就職しました。」

金属加工の会社に入社したが、高校時代までは注目を集める存在だったので、コツコツ地味に仕事をすることに馴染めなかった。わずか半年で退社し、スポーツクラブでアルバイトをすることにした。

「体を動かしたかったのです。子供も好きだったから、スイミングのコーチになりました。」

そこは新規立ち上げのスポーツクラブだったのだが、そこで奥様と出会うことになる。

「それまで、無意識に人を見下しているようなところがあったのですが、上司だった妻が礼儀やあいさつの大切さを笑顔で教えてくれました。とても感激して、こんな人になりたいと思いました。それが、今の自分のベースになっていることは言うまでもありません。」

元来、努力家である志田氏はコーチとして誰よりも早くランクアップしていったことはもちろんだが、人を喜ばせる幸福を知り、生き方も変わっていった。これが志田氏の転機になったことは言うまでもない。

兄と起業したが、キャッシング漬けの日々に

株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏

早く結婚したかったので、21歳で転職してコーヒーのルートセールスを始めた。22歳で結婚し、23歳の時に最年少で主任に抜擢された。そして、24歳で第一子となる男の子を授かった。25歳の時にアサヒ飲料に誘われて転職。
自販機設置の営業マンになった。給料もよく、仕事も楽しかったが、そのころ平塚の看板屋の婿養子に入っていた兄から業務拡大のために営業を手伝ってほしいといわれ、給料は下がるが兄を手伝うことに決めた。

ところが、28歳の時に兄が離婚して実家に帰ってきてしまう。しばらくは兄嫁の実家の事業を手伝っていたが、離婚して家庭も仕事も一度に失ってしまった兄が心を病んでしい、兄を励ますため、地元で共に看板屋を立ち上げることを提案した。2014年、兄が社長、志田氏が専務となり、横浜市旭区で「株式会社YKM」を創業した。

最初は、自分が営業すれば簡単に仕事がとれると過信していた。しかし、現実は厳しかった。そこで、2か月後に神奈川県中小企業家同友会に入会した。当初は営業目的だった。しかし、同友会は基本的に経営の勉強をする会なので、その思惑も決してすぐにはうまくいかなかった。

10社ほどの金融会社のカードを作り、キャッシングを繰り返した。もうキャッシング枠が11,000円しかないときに9,000円キャッシングして川崎支部の例会・懇親会に参加したことは今でも忘れることができないと語る。当然、借金は膨らみ、借り入れが480万円にまでなっていた。

「当時、妻には話しておらず、毎月20万円を生活費として渡していました。それもキャッシングで賄っていました。そうなってくると、人を見るとお金に見えてくるんです。この人はお金になるかな・・・というように。毎日催促の電話が鳴るのですが、出られません。絶望しかないそんな時に、同友会のベテラン会員から、『隣接異業種を考えてみたらどう?』とアドバイスをいただいたのです。隣接異業種という言葉の意味さえ分からなかった僕に、図を描いて説明してくださいました。」

「看板屋ならデザインができるのでしょう?それを活用するというのはどう?」と言われ、その翌朝には銀行に交渉してお金を借り、アクリルを加工できる機械を入れて、営業を開始した。それが、アクリル事業の始まりだった。その後、アニメキャラクターのキーホルダーなどの注文が相次ぎ、事業はようやく軌道に乗っていく。もちろんキャッシングによる借金の返済もまもなく完了した。

人々の喜ぶ顔が見たくて、次々に起業

株式会社カラー 代表取締役 志田真人氏
株式会社カラーのスタッフ一同

実は、株式会社YKMで最初に採用したのが、障がい者だった。最初はアルバイトで入社したのだが、頑張り屋なので社員にしてあげたいと考えた。でも、それが本人にとっては負担となった。障害等級が上がってしまい、退社を余儀なくされたのだ。

「人を苦しめて、何のために会社を経営しているのか。」と、苦しんだ。人を喜ばせるために経営したいと、養護学校から実習を受け入れ、その中から仕事に適応できる方を採用していくことにした。その中で、すぐには仕事をしてもらうことはできないけれど、訓練すれば仕事ができるようになると思われる障がい者がいることに気づいた。そんな人々を支援したいと、2019年、就労継続支援B型事業所 株式会社カラーを設立し、代表取締役に就任した。YKMから出る作業をしたり、市役所・区役所から依頼される作業を主な作業としたりして、養護学校や役所からも頼りにされる企業に成長していった。

昨年10月には、瀬谷に2拠点目を開設し、今年さらに3拠点目も開設予定。また、今年4月には「NPO法人カラーズ」も開設した。こちらは、勤務先の人としか交流しづらくなっている障がい者たちが横のつながりも持てる大人食堂や、悩み相談ができる居場所づくりのために作ったものだ。

その上、今年11月に「株式会社カラーズパートナー」も設立し、来春から介護事業も始める。いずれの事業も笑顔が素敵で明るい奥様あっての事業となっていることは言うまでもない。一人の障がい者から得た気づきが輪を広げ、2027年にはカラーホールディングにする予定なのだと将来のビジョンも語ってくれた。

2027年。その時、志田氏はまだ45歳。

「その後は学校の部活動専門の先生になって、高校のサッカー部の指導者になりたいと思っています。そして、サッカー選手権に出たい。それが、ケガで中断した夢の実現です。」
やっぱりサッカーなのである。だから、今も湘南ベルマーレ、横浜FC、FC相模原への協賛にも積極的だ。

「看板やキーホルダーなどの仕事もいただいていますので、戦略的な協賛です。」と、笑う。

2021年、株式会社YKMは兄に委譲し、株式会社カラーの経営に専念し始めた。現在、介護実務研修の勉強をしている。学生時代にはあまりしてこなかった勉強だが、今になって勉強の日々を過ごしている。しかも、とても楽しそうなのである。

企業情報

株式会社カラー
本社所在地:横浜市旭区都岡町26-2 山忠ビル2F
TEL:045-489-3340
URL:https://color-sign.com

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>