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神奈川県中小企業家同友会
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株式会社坂本商店 代表取締役 坂本芳雄氏


米離れが進む激戦の米業界で

豊富な人脈を宝に、未来ビジョンを語る

株式会社坂本商店 代表取締役 坂本芳雄氏
株式会社坂本商店 代表取締役 坂本芳雄氏

お会いするとすぐ「俺の話?人に言えない話ばかりだよ。」と、いきなりけん制球が飛んできた。
米穀商店を営む「株式会社坂本商店」の三代目、代表取締役の坂本芳雄氏である。「『長』と名がつくものが嫌い」と言いながら、2023年度より県南支部長を引き受けてくれた。実は、義理堅い人なのである。

裕福な家庭で何不自由なく育った幼少期

坂本芳雄氏
2歳 父に抱かれて店の前で

昭和45年(1970年)、鎌倉生まれ。坂本氏は、祖父が創業した米店を継承した父と、専業主婦の母との間に長男として生まれた。

創業者である祖父は資産家の次男坊で、当時は免許制だった米店の経営を本家からあてがわれるが、相当な酒好きで豪放な人だった。店を一歩出ると、いつ帰ってくるかわからず、あちらこちらの請求書だけが家に届いたという。だが、その反面人付き合いはよく人脈は広がり続け、客はどんどん増えていった。だから、坂本氏が生まれたとき、家庭はたいそう裕福だったという。

一方で、祖父は仕事をしなかったから、父は中学生のころから米の配達をし、高校を出るとそのまま店を継いだ。

長男として生まれた孫の坂本氏は、祖父から後継ぎとして可愛がられて育った。祖父は仕事そっちのけで坂本氏を連れて車で出かけては、おもちゃをたくさん買ってくれた。しかし、両親は商売でいつも忙しかったから、坂本氏は店内で遊ぶことが多く、社員や近所のおばさんに可愛がられて育ったという。

「いつも他人の中にいたから、そのトラウマなのか、今は人と四六時中一緒にいるのが苦手です。米屋の息子であることがトラウマとなり、米屋なんかやるもんかと思っていましたし、今も一人の時間が持てないとつらいと感じる時があります。」

時折、仕事が終わると深夜まで会社に残り、将来のビジョンを一人で妄想しているのだと笑う。

家庭は裕福だったから、小学校に入ると、バイオリン、ピアノ、絵画など、様々な習い事を両親からすすめられて始めるが、どれも長続きしなかった。一方で、両親が商売で忙しかったので、小学校2年生から家庭教師がついていた。しかも、「小学生当時、年末、のし餅の売り上げの小銭勘定を手伝うと、小遣いを1万円もらえました。翌朝には店の前に銀行の営業マンがずらりと並び、現金を受け取りに来ていました。」と語るから、桁違いの儲かりようだったのだろう。

サッカーに出会い、頭角を現した!

坂本芳雄氏
小学生時代は地元のサッカークラブでキャプテンを務めた

そして、小学校3年生の時に地元のサッカークラブに入ると、瞬く間に夢中になっていった。所属チームは、小学校5~6年生のころには鎌倉市内最強のクラブチームとなり、鎌倉選抜に選ばれた。後にJリーガーも生み出した強豪サッカークラブだったという。坂本少年は、小学生の時にはキャプテンを務めるほど頭角を現し、高校までサッカーを続けることになる。大学や実業団から声がかかるほどだったというから、その実力は本物だ。

しかし、小学生最後の試合で坂本氏がPKをはずすと、試合に負けてしまった。すると、チームメート皆から責められた。悔しかった。そのことが、「最後まできちんとやり通す。後悔するぐらいなら、やれることは全部やるという教訓となり、今の仕事に生きています。」と坂本氏は語る。

中学校に進学し、サッカー部に入ると、県大会ベスト8まで進んだ。

「このころが人生一番のモテ期でした。バレンタインデーには朝5時から自宅玄関前にチョコレートが置かれ、学校に行くと下駄箱や机の中にもチョコレートが入っていました。部活中はカバンを外に置いていたのですが、いつの間にか途中で行方不明になり、チョコレートや手編みのマフラーが入って戻ってきていました。」

でも、想いを寄せる人からはもらえなかったというから、人生というのはうまくいかないものである。

県立高校へ進学すると、先輩から勧誘され、サッカー部に入部した。監督の小柴健司氏は元全日本の選手で、2007年~2010年に全日本の監督を務めた岡田武史氏の先輩選手だった。しかし、坂本氏は次第に練習には参加せず、仲間と遊ぶようになっていく。

ところが、遊んで帰ると、自宅に監督が待っていた。その気があるなら、大学も実業団も推薦すると言ってもらえたが、気持ちが動かなかった。

そして、2年間浪人したが、残念ながら希望する大学には受からなかった。

進学先は電車で通えるアメリカの大学

時代は、バブル期である。進学先が見つからない坂本氏を見かねて、幼馴染のお母さんがすすめてくれたのが、「電車で通えるアメリカの大学」テンプル大学日本校だった。
授業も全部英語で行われる。だから、入学当初2年間は予備プログラムに入り、英語を集中的に勉強した。
そして、いよいよ本科で授業を受け始めたのだが、テンプル大学は当時まだ文部省(現・文部科学省)から大学としての認可が下りていなかった。だから、卒業しても大学卒業の資格は取得できなかった。それでも、在校生は帰国子女やインターナショナルスクールからの進学、日本に滞在している外国人の子弟などが大半を占めていたという。

特殊な環境だったが、裕福な中小企業経営者の子息も多く、その人脈が現在の仕事に大いに役立っているそうだ。

「学校近くの駐車場を月ぎめで借りている友人も多く、ベンツ、フェラーリ、ポルシェなどがずらりと並んでいました。」と、坂本氏。

バブル期とはいえ、相当な資産家の御子息が多かったようだ。その中には、その後取引することになった企業の社長もいるという。

ところで、その当時、合コンで知り合ったのが、現在の奥様である。
当時、1歳年下の奥様はすでに社会人だった。そこから7年間の交際期間を経て、結婚。その後、3人の男の子に恵まれている。

注文が来るのを待つのではなく、
攻めの商売に転じた

大学を卒業すると、当然のように家業を手伝い始めた。

坂本商店がある鎌倉市笛田は、創業当時は周辺が山だった。坂本氏が幼少期のころ、そこに大手商社4社が開発をし、約10,000軒もの住宅が造成された。そこで、父は一計を案じ、新聞販売店、クリーニング屋と手を組んで、頼まれてもいないのに引っ越しの手伝いをし、住民と顔なじみになって顧客を拡大していったという。
当時は新聞販売店が住民の引っ越し情報を保有している時代だった。

しかも、米を配達しても、その場で集金はしない。米が無くなる頃合いを見計らって再訪問し、前回配達分の集金をするという手法を確立した。注文が来るのを待つのではなく、攻めの商売である。

米屋は灯油も扱っている。当時はセントラルヒーティングが流行った時代で、10,000軒の住宅ではセントラルヒーティングを採用している家庭が多かったから、灯油も生活必需品だった。

そこで、シーズン中は常に外に設置された灯油タンクを満タンにし、月に1回使用分をまとめて請求するサービスを展開した。お客様にとっては注文する手間が省ける、坂本商店にとっては注文を待つ必要がなく他業者が介入できなくなるというメリットがあった。商才のある父であった。
今も、当時の名残で、今で言う「サブスク」のように毎月集金するご家庭があるというから驚く。ただし、現在は灯油の配達は徐々に減らしているそうだ。

父が末期がんになり、突然の事業承継

株式会社坂本商店 代表取締役 坂本芳雄氏

商才のある父のおかげで、バブル期ということもあり、商売は順調に成長していったが、坂本氏が継承する少し前ぐらいなると、バブルがはじけ、日本人の食の洋風化がすすみ、商売は少しずつ右肩下がりになっていった。米業界は不振が始まったのだが、それだけではなく、国内の米業者の数は非常に多く、パイの取り合いが続いた。坂本氏が会社を継いだ時には、すでに会社には借金もあったため、社長としての最初の仕事は銀行借り入れの保証人引き継ぎだったという。

実は、坂本氏が35~6歳のころのある日、父は末期がんステージ四で余命1年と診断されている。それまでは、勤務中も夕方4時になるとサーフィンにでかけるような気楽な跡取り息子だったのだが、急遽社長業を継ぐことを余儀なくされたのである。

「父は入院していたがんセンターから一時帰宅すると、帳簿をすべてチェックするような人でした。一方で、私はいきなり社長業を継ぎましたから、仕入れの仕方もわからない。仕入れ先に言われるままに仕入れをし過ぎ、初月は700万円もの赤字を出してしまいました。」

しかし、幸いにも2008年に社長に就任した当時、坂本氏の幼少期から勤務している古参社員がほとんどだったので、業務は社長が格別指示をしなくても安泰だった。そこで、翌2009年には、取引先だった弁当・惣菜販売業「株式会社バニーフーズ」(2022年廃業)高橋良治氏の勧めで同友会に入会し、社長業の勉強を始めた。

傾斜産業の中にあっても、
妄想の力で夢を見る

小さいころの経験から、結婚後は住居と仕事場を別にしたかった。そこで、会社から車で10分ほどのところに新居を構え、店の2階には母が住んでいるという。結婚当初から、奥様は事業とは無縁で、会社の業務を手伝うことはないというから、中小企業としては珍しい。

とはいえ、日本では食の洋風化で米離れが進み、米業界は傾斜産業の一つに数えられる。

一方で、同業者は多く、日本最大の米業者でもそのシェア率は2%にしかならないそうだ。消費の減少も相まって、年々少ないパイの取り合いになっている。しかし、仕入れ価格は政府の意向が入った価格で変動するので、商売は厳しいのだと表情を曇らせる。それでも、そんな事情に意気消沈している様子はない。

「今後は、こんな米が欲しいという業者に、それに適した卸業者を紹介するような商社的な展開をしていきたい。」と、終業後の妄想のおかげか、夢を見ることを忘れない。

現在、坂本商店の商品の95%は自社精米した米で、創業当初は一般消費者と卸の割合が8対2だったが、坂本氏の代でその比率が逆転し、飲食店や老人施設、保育園などに8割を卸している。そして、一般消費者の方は配達が九割で、店頭販売はわずか1割ほどに過ぎない。

坂本商店の強みの1つに、ブレンド米がある。西日本ではおいしくて安ければ良しとするブレンド米が主流だが、東日本では米はブランド志向が浸透している。
確かに、ひと昔前まで「米は魚沼産コシヒカリよね。」という声が多く聞かれていた。今も、東日本では、ブランド別に詰められた米の袋がスーパーの米売り場の棚に並ぶ。
もちろん、坂本商店でも、ブランド米を扱っている。中でも珍しいのは「海藻アルギット米」である。ノルウェーの海藻「アルギット」を肥料として育てた甘みの強い富山産の米で、卸しは一都道府県一業者が玄米で卸すと限定されているのだとか。

坂本商店はこの玄米を仕入れて精米して販売している数少ない業者の一つである。

ブランド米を超えたブレンド米を作りたい

株式会社坂本商店 代表取締役 坂本芳雄氏

ところで、坂本商店では飲食店ごとの要望に合わせて米をブレンドしているというから驚く。飲食店の中でも、とりわけコメの味にこだわるのが日本料理店だが、鎌倉の一流日本料理店にもブレンド米を卸しているそうだ。

「高い米ほど売れにくいのですが、ブレンド米に高級ブランド米を使用するのはコスパが悪い。でも、納得してもらえる、先方が求める味わいの米をお届けしたい。一方で、米は少量では仕入れることができないので、実は、高級飲食店向けにブレンド使用して余った高級ブランド米は、当社のブレンド米に混ぜています。だから、タイミングによっては、当社のブレンド米はブランド米よりおいしいかもしれません。」と、笑う。

今も、飲食店に営業に行くときには、その店のランチとディナー両方に必ず訪れ、客層を現地照査して米の味を提案しているそうだ。そこまでこだわって作ったブレンド米の味を評価してくれる方も多く、10年ほど前には、請われて永谷園のコマーシャルにお米を提供していた。

季節ごとに配合を変えているブレンド米は「ブランド米を超えたブレンド米」である。「コーヒーのブレンドと同様に、米のブレンドの価値をもっと高められたらうれしいです。京都『八代目儀兵衛』というブレンド米はすでに、ブランド化していますが、それを超えるブレンド米を作りたいです。」と、野心を見せる。

事業継承のことを尋ねると、「坂本家の男子は、みんな60代で亡くなっているのです。私は今53歳ですから、もうあまり時間がありません。
もしも息子が継ぎたいといってくれるなら『日本一高収益の米屋』を目指したい。」と、すでに業界内での生き残りの方策も立てている。

「追いかけられるより、追いかける方が好き。だから、営業は性分に合っています。5年間通い続けて、仕事をとれた店もあります。」 
根っからの商人であり、実は策略家でもある。

最後に趣味を伺うと、「絶対に聞かれると思って考えたのですが、思いつかないのです。」と、頭の中は商売のことでいっぱいのよう。今は商売が一番楽しく、それが趣味にも勝るもののようだ。

企業情報

株式会社坂本商店
本社所在地:神奈川県鎌倉市笛田3-21-2
TEL:0467-31-1426
URL:https://sakamoto-okome.co.jp/

<取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林正幸>