横浜・川崎・横須賀・小田原・厚木・湘南など神奈川県各地で社長が共に経営の勉強を行い、社員とともに発展する会社を創ります
神奈川県中小企業家同友会
10:00〜18:00(月〜金)

株式会社ワンウィル 代表取締役社長 山本 倍章氏

社会の役に立つことをすることが企業を発展させる

〜健康と環境に配慮した事業を目指して~

株式会社ワンウィル 代表取締役社長 山本 倍章氏

横浜の目抜き通り、日本大通りから少し入ったところにあるビル8階の、木と珪藻土だけで作られた温かみのあるオフィスが、株式会社ワンウィルの本社である。その社長室は、リモコンのボタン一つでガラスの窓が透明から乳白色に変わり、床から天井まである鏡が、動画を映し出す画面にかわる、超ハイテクな部屋であった。

そこで出迎えてくれた山本倍章社長は、少年のような笑顔が優しい紳士である。

釣りと狩猟に明け暮れた少年時代

1953年(昭和28年)、標高430メートルにある”雲海の城”として知られる備中松山城の城下町・岡山県高梁市で、旅館を営む両親の元、三人兄弟の長男として生まれた。山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であった高梁市は、備中の小京都と呼ばれて栄えていたが、鉄道の発達と共に通過駅の一つとなり、山本氏の生家は山本氏の幼少期に洋品店に業種替えをした。

自宅の庭先を蛍が舞い、近くの川にはアユや天然のウナギが泳いでいる自然豊かな環境での幼少期の遊びは、もちろん川遊び。泳いだり、釣ったりと時間を忘れて遊んだという。

そして、山本氏の幼少期を彩るものとして、もう一つ忘れてはならないのが、狩猟である。イノシシや野兎、雉を狩る父の後について、山間を歩き回っていた。
「父は、釣りも猟もすごく上手でした。でも、私はその技術を習うというよりは、父の後について歩いて、見ていることが好きだったのです。」と、山本氏。だが、いずれ父のように起業することは、自然と山本氏の心に根付いた決まり事になっていった。

中学時代は、相撲と陸上に打ち込んだ。相撲では、小柄ながら学校対抗戦の代表選手に選出された。その後、県立高校に進学し、陸上部に所属。短距離走の選手だったという。勉学にも余念がなく、その後、現役で国立岡山大学法文学部経済学科に進学する。
「大学では、あまり勉強しませんでした。瀬戸内海部、とか言われていましたね。」と、笑う。ヨット部に打ち込み、その後大学3年の時、アルバイトを始めるのだが・・・。

大学3年生で両親の反対を押し切り起業

株式会社ワンウィル 代表取締役社長 山本 倍章氏

アルバイトに選んだのは、何と「クロレラノーベル」(飲料)の岡山市での販売だった。販売権利を得るのに、250万円。その費用を大反対する両親に頼み込んで何とか借りることに成功し、岡山市内を10に分けた地域に小売店を開拓していく。
「全部は無理でした。ようやく5~6地域に小売店を作り、次にヤクルトのように宅配する家庭を開拓していくのですが、当然一人では無理です。幸い友人が多かったので、相当助けてもらいました。(笑)」

何と当時は珍しい大学生起業家だったのである。その後、卒業と同時に販売権を小売店に売り渡し、両親に借金を全額返済した後、あっさり就職した。

選んだのは、東証・大証一部上場の中堅繊維商社であった「イトマン株式会社(1990年までは伊藤萬株式会社)」である。
何と就職面接時にも、28才で起業独立宣言をしていたというから驚く。しかも、就職のポイントは、「歯車にならずに色々勉強できる会社であること」だったという。イトマン在籍時は、プラスチックの輸出にかかわり、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジア、ヨーロッパ各国など世界を駆け巡り、商取引に携わる。それに加えて、国内商売にも関与し、それらの全てが今の仕事のベースとなっているのは言うまでもない。

そして、昭和58年7月4日(アメリカ独立記念日)に30才で起業し、「株式会社ワンウィル」を創業した。

苦境を救ってくれたのは、かつての取引先だった!

だが、何の目算もなかった。28才の時にヨットの上で友人を介して知り合い、結婚した奥様のお父様が、当時無垢材のフローリングやドアなどの建材をタイから輸入していた。頼み込んで、90日後の支払いを条件に売ってもらった。だが、販路がないのに最初からうまくいくはずもなく、資本金の500万円は、その年の11月には50万円まで減っていた。
「家計費は何としても工面するから、何とか続けさせてほしい」と言った山本氏に、奥様は「信頼していますから、好きなようにやってください」と応えたと言う。

ちょうどその頃、イトマン時代のスウェーデンの顧客が、日本のメーカーに手紙を出していた。それには、「イトマンではなく、山本さんから商品を買いたい。」と書かれていたのである。手紙を携え、メーカーの社長がすぐに山本氏を訪れた。だが、山本氏は、「それはイトマンの顧客です。イトマンの了解なしに直接の取引はできません。」と一旦断った。しかし、メーカーがイトマンの了解を取り付ける。当時、イトマンは原料を販売するのが主体だったので、製品の輸出は山本氏に任せても良いと考えたのではないかと、山本氏は推測している。

こうして、ワンウィルの業績は順調に回復していった。

だが、スウェーデンの会社はなぜ、山本氏を指名したのだろうか?

「イトマン当時、土日の休みの時にもテレックスの確認をし、急ぎの場合はその場でテレックスを返していました。そのスピード感が良かったのではないでしょうか。」と、山本氏。仕入れ先が中国になり、取引が終了した現在でも、毎年12月31日の夜12時直前にはスウェーデンから電話があるのだと言う。
「今では大切な友人になっています。」

信頼関係の深さがうかがい知れるエピソードである。

フレコンバッグのリサイクル事業が新規顧客獲得につながった

業当初は輸出が主体だった株式会社ワンウィルの業務は、昭和64年のプラザ合意を待たずに、輸入に転じていく。円高を見越し、輸出が不利になっていくと踏んだからである。だが、輸出と異なり、輸入には資金力が必要となる。そこで、一計を案じ、コンテナごと買ってくれる顧客を開拓した。契約書をきちんと交わしていれば、銀行が融資に応じてくれるからである。

最初は、ブルーシートを韓国・中国から輸入した。ブルーシートを日本で最初に輸入したのは、株式会社ワンウィルだったという。だが、ブルーシートは付加価値が低い。そこで、フレコンバッグに切り替えた。そして、5~6年前からは、フレコンバッグのリサイクル事業も開始した。使用済みのフレコンバッグを有価で買い戻し、中古バッグとして安価で販売しているのである。損傷の激しいものは、再生原料として再利用している。

顧客は、産廃業者に処分費を払ったり、煩雑な書類を作成したりの手間が省けると喜ぶ。焼却しないので、地球環境にもやさしい。しかも、株式会社ワンウィルでは、他社販売のフレコンバッグも引き取っているのである。

「商売は、最初に相手が困っていることをやってあげることが大切です。」と、山本氏。
現在、新規顧客からのリサイクルの申し込みが1日10件以上あると語る。そして、それらの顧客は、新品の購入へと確実に結び付いていっている。

「実は、リサイクル事業は20年前ぐらいに一度スタートしたのですが、時期が早すぎてうまくいきませんでした。それを5~6年前に社員の提案で再開しました。」

時代を見据えて、好機を捉えての提案だった。

住宅事業への進出が失敗し、挫折

「健康と環境に配慮したビジネスを展開したい」という株式会社ワンウィルの想いは、実は中同協の赤石氏が講師を務めた同友会の企業理念作成部会の際に打ち立てた企業理念だった。

「社会の役に立つことをやらないと、企業は生き残っていけません。社会の一隅を照らす仕事をしていくことが大切なのだと、その時に学びました。」

そう語る山本氏のビジネスのキーポイントは、「海を渡るビジネス(輸出入)」、「健康と環境に配慮したビジネス」、「オーダーメイド(特注)で付加価値をつける」の3つ。

だが、失敗もあった。かつては住宅事業もやっていて、五年間で230棟も建築したのだという。それのどこが失敗なのだろうか?

「当時、長野オリンピック前で長野県の長野市、佐久市に営業所を作り、そこに40名の社員を雇用していました。輸入住宅に人気があった頃で、カナダの輸入住宅を建設していたのです。

ですが、無垢材での建設は見積もりの2倍以上の工期がかかったため、売り上げはどんどん伸びていきましたが、1棟建てる毎に赤字が出てしまっていたのです。材料の保管料も重荷となっていきました。途中でやめたくても、資金繰りを考えるとなかなかやめられず、それでも会社の立て直しが急務となり、同友会にも行かなくなっていきました。」

株式会社ワンウィル 代表取締役社長 山本 倍章氏

その後、住宅事業部を閉鎖し、会社を立て直していきます。当時、並行して始めていたのが、珪藻土の壁材の開発でした。

健康と環境を考え、珪藻土の研究・開発へ

「シックハウス」という言葉をご存じだろうか。かつて、壁材として多用されていた塩ビのクロスや接着剤からホルムアルデヒドなどの化学物質が常温でも排出されることで、目がチカチカしたり、のどがヒリヒリしたりすることが問題視されていた。

当時、大阪ガスの子会社が珪藻土の塗り壁を売り出したが、非常に使いづらく普及には至らなかった。その頃、珪藻土の山を多く保有していた三菱商事無機化学品部に友人がいた。珪藻土は、すでにビールや醤油メーカーがろ過材として使用していたのである。友人の紹介で、珪藻土の開発に乗り出した。

その頃、珪藻土に注目していた人が、実はもう一人いた。彼は、塗り壁の研究家だった。1年間は共同研究をした。だが、その後は別々に開発することになる。独自開発に成功した株式会社ワンウィルは、1998年4月に、「グッドリビングショー」で珪藻土の塗り壁を発表する。次いで、2000年に珪藻土の壁紙の開発に成功した。
この壁紙は、のちに伊藤園との共同開発で環境対応自販機の壁紙に寄与することになる。

伊藤園と共同開発したのは、伊藤園で飲料作製時に排出される茶殻を練り込んだ珪藻土の壁紙である。この壁紙を自販機の外装に使用することにより、湿度を吸収し、気化による放熱で、TBS「ひるおび」が夏場に検証したデータによると、何と通常の外装の自販機と比較すると一六度もの温度差があったのだという。これは、多くのメディアに取り上げられ、話題になった。珪藻土の基本特許を四個も持っている株式会社ワンウィルだからこそできた、共同開発事業である。

珪藻土事業で、世界に羽ばたく

現在、株式会社ワンウィルが開発した珪藻土の商品には、業務用の粉末漆喰珪藻土、すでにペースト状にした漆喰珪藻土左官材、壁紙の上からも塗れる珪藻土塗料(ペイント)、珪藻土の壁紙などがある。

アレルギーや健康を気遣う人が増えている現代では、需要は年々高まっているが、一部業務用を除き、ペイントや壁紙は小売店での販売はしていない。もっぱらネット直販なので、知る人ぞ知る商品になっている。だが、珪藻土の壁紙はアメリカのホリデイ・インホテルで採用されるなど、海外からの注目度は高い。現在、株式会社ワンウィルは、中国とアメリカに支社を構えている。

また、株式会社ワンウィルでは、珪藻土だけでは物足りない、または賃貸などで珪藻土が塗れない方のために、ファンもフィルターも使用しない空気清浄機や、100%天然由来成分の除菌消臭剤、ホルムアルデヒドを軽減するVOC除去スプレーなども共同開発・販売している。そのいずれもが、健康と環境に配慮した良品である。

このように多岐にわたり活動し、忙しい山本氏の趣味は、25才で始めたゴルフ。イトマン時代にデュッセルドルフで先輩に勧められ、いきなりコースに連れていかれたのが始まりだったのだとか。今では、海外に出かけると必ずゴルフ場へ向かうほどのゴルフ好きだというが、現在は膝を痛めて中止している。そのため、5人のお孫さんと遊ぶのが、一番の楽しみらしい。

企業情報

株株式会社ワンウィル
所在地:横浜市中区日本大通15番地 横浜朝日会館8階
URL:http://www.onewill.co.jp/

〈取材・文/(有)マス・クリエイターズ 佐伯和恵 撮影/中林 正幸〉